恋愛 創作物

道子様に告らせたい! 4

御殿場の病院は富士山が近かった。でかいどんぐりが転がってきて、病院がいつ潰されてもおかしくないような気がした。

いざ病院に足を踏み入れると、玄関や、受付、大フロア、廊下、ナースステーション、看護師、介護士や、点滴を打ちながら歩行器で歩いている患者、病室等がちらほら目に飛び込んできて、その奥に突き進んでいったところにリハビリ室がある。どこの病院でもそうだが、リハビリ室は隔離されているみたいに隅に置かれていることが多い。森の魔女が小屋で変なキノコをスープに入れてかき混ぜているような、中でいったい何が行われているんだ? という空気がどの病院のリハビリ室からも漂ってくる。

そもそも俺は薬品の匂いが苦手なのだ。病院というのはそれ自体がホルマリン漬けのような感じがする。どのフロアを歩いていても死体安置所の床を歩いている気がして、ピ、ピ、ピ、ピ、と、ずっと縁起の悪そうな音だけが流れてくる。ディズニーのパレード曲でも流した方が、患者もずっと元気になりそうだと思った。

初めてリハビリ室で施術が行われている光景を目にしても、これは一生の仕事になることはないだろうと確信した。スタッフたちは全員、資格も取ったしあとは嫁を探すだけだという顔で仕事をしており、昼にうなぎを食べて、ゆっくり眠りたくなっているような顔をしていた。みんな、(お嫁さん候補がやってきた)という顔で、道子のことを見た。しかし、隣に邪魔な男がいるな、なんだあいつは? 誰だあいつを呼んだのは? という顔もされた。

リハビリスタッフの男達は全員(嫁がいる奴ですらも)、「この一週間で自分と付き合うことになるかもしれない」という顔で道子を見ていた。そんなことは知ってから知らないでか、道子はメモ帳を片手にマスクをして、KC姿で、髪を一本にまとめていて、いつもより清楚で、確かにいいお嫁さんになりそうに見えた。施術されているジジイも、「あの子は誰じゃ? ワシはあの子に足を揉んでもらいたいのじゃが、どうすればいいんじゃろうか? 受付に言えばいいんじゃろうか? 生き別れた孫かもしれん」と、まだ何の経験のない道子に施術されたがっていた。

こうして、男女一組が一緒のところからやってくると、それだけで恋人同士に見えてしまうところがある。あれ以来、俺は道子と一回も話していなかったため、まったく関係の構築ができておらず、二人とも無骨というか泰然としていて、あの二人はもう長く付き合っていて、セックスもたくさんしているから、もう話すこともなくなっているのだろう、という印象を与えているところがあった気がした。

「あれは、いくつといくつ?」

「25歳と26歳」

「ふーん」

という声が、どこからか聞こえてきた。(ちょうどいい)誰もがそう思っているようだった。この実習において25歳の女が何か悩みを打ち明けようとしたとき、26歳の男がそばにいるというのはちょうどいいかもしれない、と思っているようだった。

実習指導者のことをバイザーというのだが、基本的には実習中はマンツーマンでバイザーと共に行動し、指導を受ける、どこの職場にもいる教育係みたいなものである。実習日誌も毎朝バイザーに提出し、一日の見学が終わると、共に一日を振り返って反省会をし、最終的な評価もバイザーの一存で決まる。俺のバイザーは、23歳の、経験3年目の若者だった。俺と道子が通っている学校の卒業生でもある。道子のバイザーは21歳の新人の女の子で、春に就職したばかりだった。この子も俺たちの学校の卒業生である。まぁ、県内だと、どこの病院に行っても、卒業生がうじゃうじゃいることが多い。

なぜ、春に就職したばかりの新人が教える側にまわるのか? と思うかもしれないが、これは見学実習だからである。案内スタッフのような存在としてあてがわれたと言ったら口が悪くなってしまうが、見学実習は若手が面倒を見ることが多い。2、3年次の少し高度な実習となると、もう少し経験豊富なPTが担当する。

臼井 眞一(うすい しんいち)という23歳の俺のバイザーは、青年を絵に描いたような男で、いい大人になるための階段を上がり始めたばかりのところがあって、何かと空白を埋めるために、よく話す男だった。彼とはよく更衣室で一緒になったが、そんな朝の始まりの数十秒程度でさえ、「しまるこさんの昨日の○○、すごいいい感じでしたよ」「僕が実習の時は〜」と、俺の緊張をとろうとして、何かと世話を焼いてくれる男だった。若いPTの方が優しい場合が多い。

俺が「臼井さん」と言うと、「あ、しまるこさん、 一応俺も先生なんで。俺の方が年下ですけど、先生と付けた方がいいっすよ。生意気に聞こえたらすいません。しまるこさんも、年下相手だとやりづらいかもしれませんが」と、どっちが年上だかわからない対応をされた。「あ、あと学校の先生のことも呼び捨てにしない方がいいですよ。俺も学校にいる間は先生のこと呼び捨てにしてたけど、実習先で言うとバイザーの評価下がっちゃいますよ」と、更衣室で着替えているだけでも、4、5回はこんなふうに諭してくれた。

「うん! すごくいいよ! 患者さんに後ろに立つ位置とか、言わないでもわかってるし、しまるこ君はすごく勘がいいと思う。いつ倒れても支えられる位置がわかってる。あと、支えるときは、腰に手を添えるでもいいんだけど、ベルトを掴んじゃってもいいよ。ベルトに指を引っ掛けておけば、もしもの時も間に合うから。ベルトを持たれると嫌な顔する患者さんもいるから、その辺りは、なあなあで。……私も二ヶ月前に転ばせちゃったばかりでね。実はすでに2回転ばせちゃってて」

この可愛い先生は、俺のなす事をなんでも褒めてくれた。道子のバイザーの21歳の柳田 美兎(やなぎだ みう)先生。この人も、俺と道子を楽しい実習にさせようと骨を折ってくれた。彼女は俺のことを君付けで呼ぶ人で、俺より5歳も年下なのにタメ口で話す人だった。

しかし、この時はなんとも思わなかったが、わずか半年の間で、2回も転ばせるということは看過できる話ではない。異常と言っていい。俺ですら、この後デイサービスに就職してそこで4年間働くが、その間で一回しか転ばせなかった。PT人生において、一度も転ばせないで終わる人だっている。確かにこの先生は、いつも子ウサギが跳ねているような、病院の隣の森に生息している小動物が、間違ってリハビリ室に迷い込んできてしまったような雰囲気があった。

私は本当に馬鹿で…………、と、国家試験もボーダーの168点に自己採点時に足りていなかったが、解答不能問題のために、点数が繰り上げされて、奇跡的に合格できたのだと話してくれた。「私と違って、岩田さんとしまるこ君は地頭がいいんだから、きっといいPTになれるよ!」と、もうすでに自分がいいPTになる未来を放棄した発言と、まるで後は俺たちに託したというような発言をしており、なんだか本当にウサギと話している気分になった。

基本的に見学というのは、セラピストが施術しているところを、「○○先生、見学させてもらってもよろしいでしょうか?」とお願いして、立ち合わさせてもらう。施術は患者と対一で行われるものであり、実習生は、セラピストと患者の横に行儀よく座って見ているだけだ。見学は各自で行い、俺と道子は別行動となる。

12時になると、午前の実習は終了し、昼休憩となった。病院内には食堂があり、昼はそこで食べるように言われていた。食堂は大きく、リハビリスタッフや院内のスタッフが一同に集まって大変混み合うが、それを収納できるほどの大スペースだった。

食堂へ向かう途中、ナースステーションで、異様な光景を見た。

「先生方、午前の実習はありがとうございました。石村はこれから昼休憩をとらせていただきます。先生方、午後のご指導もよろしくお願いします」と、深々と頭を下げていた。看護学校の実習生らしい。ナースステーションの看護師たちは、誰も反応していなかった。女の職場だけあって、殺伐としているなと思った。

このセリフは学校側から言いつけされていたものだろう。現役生、18歳かそこらだろう。言われなければこんなことをやろうとしない。異様な光景だった。女の子は泣きそうになって声が震えていた。看護師たちは誰も返事をしなかった。どの実習生が来ても、ああしているんだろう。間違って、医療ミスでもしたのかなと思った。実習生にはこの扱いでいいのだと、空気がそう言っている。もし、俺がこっちだったら……、と思うと、飯が喉を通る気がしなかった。これじゃあ、ちょっとくらい命を救っても、全て嘘になる。

俺はいちばん乗りでテーブルを陣取って、おにぎりを食べていると、少し遅れて道子がやってきた。

「ご一緒してもいいですか?」

「はい」

ふーん、道子のくせにやるじゃん。と思った。俺は道子のことだから、別のテーブル席に座って、そこで一人で弁当を食べだし始めるんじゃないかと思っていたから、俺のところにきて、一緒に食べようとしてくれたことに感心した。

すると、一言も話さない間に、臼井と柳田先生がやってきた。

「お疲れ様ー」

「お疲れ様ですー」

「ご一緒してもいい?」

「はい、ぜひ!」

こんなふうに、先生たちの方から、一緒にご飯を食べようとしてくれるケースは少ない。たいての実習生は、実習室で、スタッフ達が談話している中、黙々と食べて、食べ終わったら、教科書を読んでいるふりをしてやり過ごさなければならない。誰が見てもポーズだと分かっているのだが、そういうふうにして過ごさなければらないのだ。

先生たちは、食券で購入したそばやうどんを下げていて、ここのうどん美味しいよ。といった。

「それで足りるの?」

と、柳田先生に聞かれた。

「はい」

俺はおにぎり2つしか持ってきていなかった。学校で昼を食べるときも、これだけである。みんなによく驚かれた。26歳になって、お母さんにお弁当を作ってもらうのが申し訳なかったからだ。おかずが2、3種盛り込まれた弁当となると、お母さんは1時間早く朝を起きなければならなくなるが、おにぎり2つだけなら、もっと寝ていられる。母親は料理が大好きで、俺の気遣いは無用だったが。

「岩田さんは自分で作ったの?」

「はい」

道子は自分で作ったらしい弁当を広げていた。

「えらーい、私も一人暮らしだけど、最初はお弁当作ってたけど、今は食堂頼みになっちゃった」

みんなで道子の弁当を見やった。子綺麗で体裁がよく、優等生の弁当だった。

「得意料理はあるの?」

「サバの味噌煮です」と道子が答えた。

ぶーーーーーーーーーーーー!!!! と俺はおにぎりを吹き出しそうになった。

サバの味噌煮ぃ? 典型的すぎやしねーか? やまとなでしこ、真面目なお嫁さんキャラを地で行きやがって。サバの味噌煮はやりすぎだろ! 今どき、「得意料理は?」って聞かれて、「サバの味噌煮です」って答える女いるか? よく自分で言ってて吹き出さねーもんだな。Fateの桜じゃねーか。なんだこいつアニメばっか見てんのか? よく恥ずかしくねーな、と思った。

「へぇ、サバの味噌煮」

「いいお嫁さんになりそうっすね」

ほーら、言われた。しかしあれだぞ、サバの味噌煮を作ってるってことは、作ってるってことは食べてるってことだぞ? 食べてるってことは口の中がサバ臭くなってるってことだ。それでいいのか? みんなに口の中がサバ臭いという印象を持たれてしまう。

「えらいねー。私、サバの味噌煮は缶詰で済ませちゃう」

「一人暮らしですよね? 気合入ってますね。実家暮らしでお母さんの手伝いならともかく、一人暮らしでサバの味噌煮を作るってすごいですね」

と臼井も感心していた。

マジかよ、このままサバの味噌煮のフェーズに入っていくのか? 嫌だな。だから嫌だったんだよ、実習なんて。

カレーパンの話にしてくれ。

「缶詰じゃなくて?」と俺が言ったら、みんな吹き出した。

「缶詰なわけないでしょ!」と柳田先生が怒った。「なんでこの流れで缶詰が出てくるわけ?」

「缶詰じゃないです」と、照れながら道子が答えた。

「これで缶詰だっておもろいっすね」と白井が言った。

「ずるいなぁ、このキャラ」

「本当にいいキャラ」

と臼井と柳田先生が俺のことを面白がってくれた。俺が年上だということもあるのだろうが。

道子もはーっと、恍惚した表情で俺のことを見つめていた。

まだ、「缶詰じゃなくて?」ぐらいしか言ってないはずだが、俺が気づいていないだけで、俺の持ち出している空気が彼らを魅了するのに十分だったのだろうか。彼らは俺抜きで3人だけで話していたら、いつまでもサバの味噌煮を褒め合うという社交モードから抜け出せず、俺の中にそれをぶち壊してくれそうな何かを掴み取ったのかもしれない。空間が、俺に「ボケろ」と言っていた。実習生としては誉められた態度ではないが、彼らもまた若く、不正を強く咎められないのだ。

「二人は学校でも話すの?」

と柳田先生が聞いてきた。

俺と道子は顔を見合わせた。

「学校では一度も話したことはありませんでした。ここに来るとき、連絡するために相談して、その時初めて話しました」と、ばかていねいに道子は説明した。

道子はばかていねいに話す女だった。真面目な女ってのは、どうしてばかていねいに詳細をそのまま話すのか。小説の地の文のような喋り方をする。自分が思っていることよりも、外形の情報を補完するようにして会話を進行させていく。地の分を挟むことで解像度の高い情報を提供して、全体のバランスを取っているのだ。頭がいいっちゃ頭がいいが、柳田先生のようなタイプとは真逆だと思った。

頭がいいのはわかる。だけど、サバの味噌煮はよくない。私の口はサバ臭いと言っているようなものだし、古典的すぎるし、じゃあ何だったらいいんだろう? ビーフストロガノフ? ビーフストロガノフは……なぁ……。ビーフストロガノフって言われたら、どうなってしまうんだ? 先生さん達はそれでも「いいお嫁さんになりそうだね」って言うのか? そしたら俺は頭がおかしくなってしまいそうだ。しかし、道子は本当にサバの味噌煮が得意料理なのかもしれないな。道子の場合は。本当にそうなのかもしれない。頭がおてんてんさんみたいなところがあるし、やっぱり缶詰のことを言っているわけじゃないだろう。

「しまるこさんは学校だと、あまりみんなと話さないですよね?」と道子が言った。

なんだこいつは? なんで余計なこと言うんだ?

「そうなの? 学校でもそのキャラ出せばいいのに」

「私も、しまるこさんがこういう人だとは思いませんでした」

「私や臼井くんの前ではそれでもいいんだけど、次の評価実習は気をつけてよ? もっとハキハキしないとひどいバイザーにあたったら落とされちゃうよ」

「はい」

26歳になって、21歳の年下の先生にタメ口で説教されるというのは、嬉しいものだ。

柳田先生は勉強も実技も自分はダメだなんて言っていたけど、やはり人間は光るものはあるわけで、ほとんどの会話は柳田先生がまわしていた。いちばん年下なのに、すごいと思った。それに比べて、道子は……。

-恋愛, 創作物

© 2022 ちんこ Powered by AFFINGER5