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さて……

何か例えば文章を書く場合、ただ中心を書き写したいという欲望がある。自分の腹の底か、天からくるものか、自分や地球の中心とピタリとハマる何かをしっかり漏らすことなく書き写したいという欲望がある。

チャンドラーはいい文章とは大抵それがみぞおちからくるものだと言ったが、みぞおちとはへその緒か、へそのおのように、大地の母と繋がれたように書き連ねることを言っているのか。いや、もっと自分自身か。

中心にある、確かなものがはっきり見えない以上、ただ浮かび上がる想念をふつふつと湧き上がるものを書くほかなくなってしまう。

この文章は本当にくだらないことである。書くために書かれたものと言っていいだろう。書くために書くということは、話すために話しすと言っているのと変わらない。思えばこれまでの書かれたものを読み返すと、読み返すまでもなく分かることだが、本当にくだらないと思ってしまう。

全く中心の中心のことを書こうとしても、中心のことは何も分からないし、近づこうとすれば何もないようなもののような気がする、中心に近づけば近づくほど書くことがなくなってしまう、その反対に感情とか生活とか肉体的なもの、肉体や五感に肉薄するものだけはいとも簡単に書けてしまう。

かといって別に宗教的なことを書きたいわけでもない、宗教的な中心に触れ、その奥義を持ち帰ったとしても、それを書きたいとは思わない、本当に書きたいことは何もない。紙とペンの無駄である、時間の無駄である3時間か4時間座り続けやっと書き出したのが、この文章だ。はて何の意味があるんだろう?

世の中にはとても面白いものや価値あるもの、大悟した人や天才たちが書き残してくれたものがある、小生はそういう本以外のものは全く読まない。凡人の書いたくだらない生活感の香ってくる文章は全く価値を感じない。苛立ちすら感じられる。自分の文章もイライラする、なぜ書けないのか、なぜ魂に触れるものを書けないのか。

これだけ生きてきて、魂の在処がわからない、小さい頃から、確かに真我だかなんだか知らないが、守護する者、背後にある何かを感じて生きてきたつもりである。何かふと感じられる、大きなものをひとり信じてきたつもりだったが、未だに全然よくわからない、これが分からないと何もする気になれないのは甘えだが。

正しいフォームを知らずにボールを投げ続けている後味の悪さだけが続く、自分の想念が本当に気持ち悪い。自分の中に浮かぶもの全てがゴミのように感じられ、でも気付かずにいつもそのゴミと一つになってしまう。そこから引っ張りだされる文章もまたゴミと同じである。

自分以外のものを書けたら書くのも楽しいかもしれないが、自分以外の書き方がわからない、神から与えられたものを書きたいけど、それだってさっぱりわからない、自分のこんなつまらない自我の吐露しか書けない。困ったもんだ。それが本当に悔しくて、苦しい。中心のことはわからないけど、中止からずれていることだけはわかる。自分の言葉や行動が、中心からズレていると感じながら生きることは苦しいものだ、ヘルニアのようにずれたままの生活は痛みを伴う。

希望は、ただ全てを停止させたい、それだけである。自分から発生するもの全てが嫌いだ、頭に浮かぶものを心に浮かぶもの全てが嫌いだ。自分を愛せない者は他人を愛せないとよく言ったもので、他人の中で発生している心や想念すら気持ち悪く思ってしまう、だから一人でいるが、一人でいてもこの気持ち悪い声がずっと続く。どこで何をしていても自分からも他人からも逃れられない。

死ねば全てが解放される気がするから、スイッチ一つで死ねるものなら死にたいものだが、自殺すると今度は今よりずっと階級の低いところから再出発させられるらしい。輪廻転生の低いところからやり直しさせられるしい。今度は何だろう? カエルか犬か? 自殺したら人間にすら生まれてこれなくなるかもしれない。それくらい大きな罪を魂に与えてしまうとラマナマハルシは言っている。確かに自殺は自然に反している。カルマからいってペナルティが課されるだろう。ペナルティも何もどうでもよくなることだってあるが。殺すなら身体じゃなくて心を殺すんだ。

どうして? もういいだろう? どうしてすべてを終わりにしてくれない? もう、輪廻転生とか、すべて、すべて終わりにしたいのに、俺はそれに気づいて、ちゃんとその問題に取り組んでいるのに、どうして解放してくれないのか? 

こうして真我を求めるように生まれてきたことは、信じられない幸福だと聖典には書かれている。

「よく聞きなさい。神を求めようと思う気持ちが、普通の人間にまず起こることはありません。大いに大いに大いにカルマが必要とされるのです!」と、ヨガナンダ先生は、今の俺と同じようなことを言った弟子に対して、静かに彼のそばに近寄っていき、怒気を強めて叫んだとされているが。

これは幸運なのか、確かにこれ異常なくらい求めている。疲れて疲れて求めるのに疲れすぎて書くことも生活することもままならないほどに。全てが邪魔に感じる。

ただ、空間を求めて空間の中になんとなく一体感を覚えると無上の喜びを感じるし、この喜びは一体どこから来ているのか、この正体を突き詰めたくて一生懸命だ、しかしこれも本物ではない気がする。それは最初からあるもので、行ったり来たり出たり入ったりするものではなく、最近からそこにあるものらしいからだ。自分の家の中にいながら家に帰りたいと駄々をこねているようなものらしいのだ。

あ、ここが本当に自分の家なんだと心の底から感じられたことは一度もない。だからただ静かにしているしかない、努力しても何をしても遠ざかるばかり、初めから、こんなことを気にしなければ一番いいのかもしれないが。

なぜこんなに気になってしまうのかは分からないが、小さな頃から、今ほどではないけど気にしていた。

クシャトリヤやらバラモンやらスードラという風に、インドのヒンドゥー教やら何やら知らないが、生まれながらにして人間の特性というものはあるようで、労働をする人はスードラ、貴族階級や芸術家や職人、クシャトリヤ? 神を見出すためにやってきた人がバラモン? だっけか? 忘れたから適当だけど。

言っちゃ悪いが、確かに息を吸ったり吐いたりするように自然に労働する労働者階級の人間がいる。マックでもコンビニ店員でも何でもいいが、本当に、ポテトを揚げるために生まれてきたような人がいて、自然に呼吸するようにチキンナゲットと一つになっている。

そしてあるいは、商業的に成功をおさめるために躍起になる人がいて、それは明らかにスードラだか労働者階級の人間と違って、もう頭から足先まで、空気が違う。明らかに奴隷になるために生まれてきた人間ではないといったふうに。会社を起こしたり、文章を書いたり、絵を描いたり、研究者だったり、その辺りを成功する人はクシャトリヤらしいが、

バラモンというのは、神を見出すためにやってきた階級らしい。バラモンがいちばん希らしい。どうしても神への想いが止められず、寝ても覚めても神のことが頭から離れないらしい。

俺? 俺は知らんけど(笑) 別にバラモンだって言うつもりはないけど(笑) ここ日本だし(笑)

ドラクエ3のバラモスがいいとこだよ、本当に。

これまでたくさん頭のいい人、面白い人、俺よりずっと才能や知識のある人、敬虔な人、ボランティアをする人、教会で賛美歌を歌って祈る人、色んな人を見てきたけど、日曜日の朝に宗教の勧誘にくる人を含めても、俺以上に本気で神への探求をしている人を見たことがない。やはり彼らはもともとバラモン階級じゃないからだろう。

俺はもしかしたらバラモン階級だから、仕事をあまりやりたがらないのかもしれない。ずっと家でボーッとしていたがるのは、バラモンの血がそうさせているのかもしれない。

(笑)

親友ですらこういう話をすると大体疲れさせてしまうだけだし、俺だって口に出せば出すほど力が抜けてしまい、声に出す前に空気が削がれてしまうことが分かっている。こういうことは口に出すことではないのだ、ネットでもそうだ、口に出せば出すほどうさん臭くなり、うさん臭い連中がやってきて、徒党を組んで、うさん臭くなるだけだ。真剣30代しゃべり場になって想念をいっぱいにしながら自分なりの神の解釈を語るだけだ。だから親友の気持ちが分かるような気がした。

だから、本当は神がどうとか語りたくもないし、語っちゃいけない。しかし、このこと以外に書くことがない。他に何も考えていることや探求していることはない。こんなこと言っているのも甘えのような気がする。自分のやらなければならない事を放棄して、神よ! あなたのペンとなります! アイデアや能力やセンス、すべてお与えてください! と言っているのである。これじゃ、ただの乞食だ、自分のやることぐらい自分でちゃんとやらなければならないんだけど、最近はよく分からない、自分の頭で考えて、自分で何か表現しようとしても、それがどうもちっぽけでくだらない枝葉末節のように感じてしまう。他人と話すことも他人が考えていることも。だからこうして1人でいることは救われるような気がするが、これは一体何なのか、この時間は何なのか、仕事もせず、ほとんど食べず、でも最近はよく寝る。6時間くらい寝ている。

こんな生活を繰り返して4年になる。4年目の夏、羨ましいだろうか? なんだろう? この生活は。

確かに仕事しないことは楽だ。人間関係で困ってることはない。仕事しているよりも楽だ。じゃあ修行しているのかというと、なにもしていない。瞑想も30分が限界だ。ただボーっとして、ボーッとした中から直感を働かせて、瞬間瞬間の、無らしきものを掴んだり、掴まなかったり掴めなかったり、自分でもよくわからない時間を過ごしている。たまにYouTubeを見たり。

せめて自分の特性に従って何かできることをやろうと思って、ブログぐらいは何かしら書こうと思っているが、この空間ばかり見つめていると、それ以外の情報や言葉が、全部くだらないことに思えてくる。

極度のこれじゃしょうがない、こんな生活じゃいけないと思いつつも、これが仕事なのだという思いがある。俺にとっちゃ何だか分からないが、これが仕事のような気がしてしまう。

こうするほかないのだ、全てを決めて、全てを抜きにして、自分の中の一番真面目な部分、一番真剣な部分になった時、これをやろう、これをやらなければと思ってしまう、これが自分の生命を一番活かすことのように思えるのだが。

ただ、この無言の空間を見つめ続けること、それが仕事であり、これがいちばん楽しくもあり、いちばんつらくもなり、生きたくもなり、死にたくもなる。

深淵を覗き込んでいるときは深淵も覗いている、か。ニーチェは深淵に取り込まれてしまったようだが、俺はどうかな、正気でいられるか、俺はニーチェより精神が大きいと言えるのか。なんて、どこまでなろう系主人公を気取るつもりか。

さて……

頭の中は一日中ずっとこんな感じだから、週5で仕事もやれる気がしないし、週2だったらやれるかな。結婚も言わずもがな、恋も言わずもがな、結婚してもずっと虚空を見つめて放心していることだろう。誰かといても、誰と話しても、全部おまけのように感じてしまう。やはり何よりただこの空間と結びついていたい。しかし、それも自分を苦しめる。ただ寝ている時だけ全てを忘れられる。

これがどうにかならないと、ちゃんと生きれたもんじゃない。結婚もできたもんじゃない、別に結婚する気もないが。今日も明日もずっと椅子に座って、バットを振って、虚空と対決しているだけである。これじゃあしょうがない、これが何とかなるまでは、一人でこの生活を送ろうと思っているが、果たして何とかなるのか? 終わるのか? 

まるで他の人間が全て間違っていて、自分だけが正しいことをしていると言った文章だが。これ以上人イライラさせることがあるだろうか、まるで人を出し抜いたつもりでいる。そしてこんなこと言っておいて、ほうけた面をしてYouTubeを見ている時間は一体なんなのか。

うおおおおおおお!!!!!

眠りは救いだ。しかし眠りもまやかしだ、俺は本当の安らぎを得たい。自分の心を消し去るまでは他の何もやる気が起きない。情けない。甘えだ。いつも、「何してるの?」と聞かれても、本当になんて答えていいか分からない。

しかし、これはこれでいいのだ、この結果何も得られなかったとしても、俺は後悔はない。結局そこまでだったわけだ。というより怠惰だったわけだ。今、全力を尽くしているとは言えないのだから。やはり、俺が悪い。俺は今のところこれ以上はできそうにないから、もう後は勝手にしてくれればいい。

バラモン階級(笑)

「普通の男と女ができるようなことができなきゃそれは嘘だよ」と中村天風先生が言ってたけど、まあそうだね。俺だってやりゃできるよ。やりたくないだけさ。神か。何かあると神、神、神、と言って、ぜ〜んぶ神頼みだ。

まぁ、こんなところだ。うんざりしただろう。俺もうんざりだ。別に苦悩したり考えたりしているというより、ボーッとしていたり、ダラダラばかりしているが、いざ紙とペンを持つと、こういう言葉がダーッと出てくる。それだけの話だ。他の何を書くよりも、この勢いに任せてしまった方が、水道管がいったん綺麗になるかなぁと思った。

さて……。

本当に、さて……、だ。

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