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「 制止している心」と「飛びついている心」がある

心の動き方に対して、注意して見ていると、いつも何かに結びつこうとする。雑念、タバコ、食べ物、難しいこと、簡単なこと、神、スマホ、YouTube、女、エロ、しかし何にも結び付かずに行動することも可能である。

何も変わらない部分がある。どこにも行かず、ただ座っているかのようにそこに留まっており、食べ物にも酒にもタバコにも異性にもまるで興味を示さない。まるで他人のように誘惑を眺めている。しかしなんだってこの世はこんなに誘惑ばかりなんだ。人や企業は誘惑しか作り出さない。どこまでも人を退化させることに熱心だ。金と時間と神聖さの奪い合い。誘惑を焚きつけて誘惑を誘い出せたら勝ち組ということだ。地上というのはこれが全てだ。これらのどれにも目をくれずに、一心にもう一つの飛びつかない心だけを見据え続けなさい、と背後の大きなものに言われている気分になる。となると、つまり誘惑は人や企業が作り出しているようでいて、創造主が作り出して試しているように思える。

今まで欲望に取り憑かれ、怒ったり泣いたり、感情的な面でも、欲望や感情に取り憑かれている自分は別物で、決して自分ではないように思う。少なくとも、感知できるのは2種類の精神を発見できるということだ。なにか外側に飛びついてしまっている自分と、動かない自分、その2つだけは感知できる。この飛びついてしまう精神をすべて切り捨てられることができたら、と願うばかりである。

もうずっとアホな実験ばかりしている。他のことを何もせず、YouTubeに飛びついてしまう自分、ジャンクフードに飛びついてしまう自分、タバコに飛びついてしまう自分、怒り、感情に駆られる自分、その一方で、ただ静かに何事もなく留まっている自分の2つを並べながら観察していた。別に観察したからといったってどういうこともない。ただ傷口をかいているだけだ。引っ掻けば引っ掻くほど広がっていく。こんなものは意識すれば意識するほど、注意すれば注意するほど、溝が深くなっていくだけだ。わざわざ自分で掘り起こしてばかりいる。すべて忘れてしまえばいい、それだけの話だ。そして金がかかる。

本当に、この何かに飛びついている自分が好きではない。こんなことばかりしていると自分が嫌いになる。この2種類の精神をものさしにして、周囲を当てはめて考えていると、ほとんどすべての人が、何かと結びついて行動したり発言したりしている。YouTubeのコメント欄で喧嘩しているのを見ると、猛烈に悪霊のようなものに取り憑かれて我を失っているのが確認できる。30代というのは、ショーペンハウアーが言うにはいちばん獰猛になりやすい時期らしい。

動かない方の、この精神のまま会話したらどうなるだろうと思って友達と電話していたら、何も面白い一言が浮かんでこなかった。こうして書こうとしたって面白いことは何一つ言えなくなる。制止した水面は、制止したままだ。やり方が間違っているのかもしれんが。ただいつもより会話をよく聞けて、相手の話を折らずにすんだが、エネルギーに欠けるようで、少々、退屈な思いをさせてしまったようだった。いつもは一度の電話で5時間くらい話すが、その日は2時間ぐらいで、「じゃあまたキャッチボールしよう、またね」と言われてそそくさと切られてしまった。「はあそうか、うん、うんうん」という相槌ぐらいしか生まれなかった。

とても無言が多くなり、ほとんど友達が話しているだけで聞いてるだけのことが多く、誰と話している時でも全体の2割程度しか話さない。だが一旦スイッチが入ると、本の4ページぐらい話し続けてしまうこともある。飛びつくと元気になる。飛びつくとたくさん話せる。書くことも話すことも飛びつくことでしかないのか。俺は制止している方の精神の方が愛しているし、そっちでなければ越えられない壁に差し掛かっているような気がするのだが。 というより、いつまでも飛びついてくっついての自分でいたくない。

痛いものは痛い。冷たいもの冷たい。熱いものは熱い。ただそれだけだ。感覚は感覚。感覚があるだけだ。全ては肉体と心の信号による感覚があるだけだ。さいきん寒い日が続くが、この寒さも、寒さの分だけ苦しめられている人はいない。苦悩も怒りも、その分だけ苦しめられるということもない。必要以上に痛みを感じてしまう。この信号は内部か外部か。自家中毒を起こしている時点で内部のように思えないこともないが、やはりいつまでも制止したままの地点からじっと見ていることができるから、やはり外部だと思う。外から来た何か。痛みすらも、究極的には外部かもしれない。確かに肉体の中で激しいものが走り続ける。走り続けるが、それとひとつになるかどうかはその人次第。ひとつになってしまえば、我慢できるものではないし、必要以上なものを感じてしまう。ラマナマハルシは肉体と心を自分と同一視してしまうことに一切の不幸があるといっている。

中村天風先生は、講演家なのに関わらず、咽頭ガンで声が出なくなってしまい、手術しなければならなかった。患部は麻酔を打てない箇所であり、医者からは「とうてい人間では我慢できる痛みでないから手術は不可能」と言われたが、天風先生はいいからおやりなさいといって、一切苦痛の顔を見せずに、終始ケロッとして切り抜けた。天風先生になると、痛みを別物の独立したものとして認識していたのか。

本当においしいのか。本当に痛いのか。本当に怒っているのか、本当に苦しいのか。いったい誰が? ただ信号があるだけだ。この信号を意味づけしているから、この信号と一体となってしまうから、食べ物だのタバコだの欲望だの愛だの、枚挙にいとまがなく、次から次へと飛びついてしまう。飛びつかない間がなくなるほどに。

それらのどこにも結び付かないものがある。もしこの結びつかなければここに留まれるなら、それだけが巷のスピリチュアル本からバガヴァッドギーターで言われているように、幸せの唯一の方法だとしたら、ここ以外考えられなくなる。これが、本当の自分、ねぇ〜。本当の自分探しなんてものは物笑いの種にされるばかりで、やれ海外に行くだの自転車一周だの瞑想だのスピリチュアルだの言うと、笑われるどころか人を不快にさせてしまい、親にも怒られてしまう。まぁ、俺のように瞑想ごっこしてる類がいちばん人を怒らせてしまうものだ。なぜ怒るか、出し抜かれた気でもするのか、じゃあ嫉妬しなくなるまで励めよ、と言いたいところだが。人に言うことじゃないからな。人に言うことじゃないから怒るんだろう。「本当の自分なんてないよ」とどこでも誰にも一笑されて終わりだ。 まぁ言いたくもないし話したくもないがね。

本当は、この内側の精神に留まっていたら、欲望を克服できました! という記事を書きたいところだが、できてない以上は、これ以上のことは書くことはできない。

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