霊的修行 コミュニケーション

朝の挨拶運動〜ネット弁慶たちと戦う友に送る愛の言葉〜

緑間さん! おはようございます😃😃😃😃

緑間さんのおっしゃっていることは、大体いつも正しいと思いますよ。いつも正しいなと思いながら読んでいます。

でも結局行き着くところは、こういう論理の全ての行き着くところは、やっぱり力で証明しろってことになると思いますね、つまり作品です。

私もネット弁慶達を見ているとイライラするし、ぐうの音も出ないくらいまで論破してやりたい、ボコボコにしてやりたいと思ったりもしますが、(まぁ私の場合は下手くそであまり勝てたこともなかったですが)ネット弁慶達に限らず、世界中の誰一人として、他人を変えることはできないということです。

緑間さんの中にあるのは、勝ちたいとか、悔しい、倒してやるという気持ちだと思います。それが悪いとは思いませんが。やっぱり結局の所、論理的遊戯というか、物書きである以上、そういった論理的遊戯において勝ちたいという気持ちが強くでてしまっているように思われますね。それが自分に跳ね返ってきて、余計にイライラしてしまう。

「嫌われる勇気」では、相手を褒めても叱ってもいけないとも書いてあります。ただ全面的に信頼しなさいと書いてあります。先にまず全面的に信頼し、全存在として相手を信頼しない限りは、いかなるコミュニケーションも無駄骨に終わるということです。褒めるのも良くないと言っています。褒めるのも、上から目線であり、縦の関係を助長してしまうとあります。

じゃあどうすればいいかというと、全面的に、まずこちらが信頼するのがいいらしいです。それは偽物ではなく、本気で、こちらが彼らを信頼するというのです。褒めるのでもなく叱るでもなく、感謝の言葉を言うのがいいらしいですね。「ありがとう」と感謝の言葉を伝えるのがいいとあります。

私も何度もネット弁慶たちと対戦しましたが、心から尊敬して、真心をこめて、本気で向かい合わなければ、こういったことは、全て反発されて終わる結果になりますね。誰も自分を認めてくれない人間の言うことなんて聞きたくないようです。例え正論だとしても。正論なら尚更かもしれません。やっぱり愛を欲しがっているようですね。愛といっても、必死なラブコールではなく、ただあるがままに承認してほしいということです。

私たちは、自分の全存在を認めてくれる人としか、そもそもが会話というものが成り立たないようです。この気持ちさえあれば、言葉すら不要ではないかと思うこともあります。少なくても、全ての言葉は、この気持ちを出発点にしなければ、不毛に終わると思われます。対話というのは、それかそれ以外でしかない、創作もまた同じだと思います。

アドラー心理学でいう、これが愛らしいです。愛とは尊敬にとても近い感情らしいです。

緑間さんもわかっていることでしょう。緑間さんも、彼らを本気で変える気などないでしょう。ただムカつくから一言言ってやりたいだけでしょう。だから、正しいけど、何の力も持たないと思いました。

友人にしろ、仕事にしろ、恋愛にしろ、夫婦にしろ、個人、国家間にしろ、こちらがまず全面的に信頼し、ぶつからなければいけないそうです。私も、理論だけが先行して実践が追いついていません。しかし、愛がなければ全て右から左に流れていってしまうのは確かでしょう。

緑間さんの、「彼らの一体どこを愛すればいいんだ!?」という気持ちはわかります。しかし、みんな誰もが、今日も今日とて、血みどろの凄惨な闘いの日々を送っています……し、彼らもおばあちゃんが死ねば泣きますし、それらのすべては、私と緑間さんと一緒です。そこは物書きとしての想像力を膨らませたいところです。愛がなければ何もありません。ニーチェの言う通り、愛せない場合は通り過ぎるのがいいでしょう。だから私は通り過ぎています。

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