幸福を他に求めることなく、あくまでも自分自身が幸福の原因、天国、極楽浄土、パラダイスをこの地上でこの身を持って成し遂げることができるという点はとても面白いと思った。自分の中に地上天国、理想郷を成し遂げることができれば他に求める必要がない。これほどの強さはないし、信頼感はないだろう。自分という存在を持って大満足でき、真の幸せ、天国に住むかのような生き方ができる可能性があるのであれば、そこを掘り下げ、模索していきたい。結果が出ず、実を結ばないような旅になろうとも、あくまでも生涯をかけて研究していきたい。
思考は時間を創造し、時間は思考を創造する。時間思考のなかで、私は自己アイデンティティと分離というまやかしの感覚を維持する。我思う、故に我続く。 思考が時間のなかでもっぱら行っているのは、つかみ、分割しながら、満足あるいは災難に向けた前進という観念を絶えず生み出し続けることだ。思考は邪魔をし、秩序について語り、約束をし、破壊について話す。 時間思考は、私が私自身と呼ぶ場所からの記憶と投影の海の上を行ったり来たりする。 心の働きは制限と解放の完全な均衡を維持しつつ、それと同時に存在のあらゆる部分、見えるものと見えないものをいつまでも調べ続け、探求し、切望するが、そこで見つかるのは探している当の主体だけだ。 どれだけ考えたとしても、それによって自分とは何かを見抜けることはないが、理解は私を川べりまで連れて行くことがある。 静寂は思考しないことによってもたらされるわけではない。静寂は思考が存在するか存在しないかといったことを絶対的に超えている。私には自分を静かにすることはできないが、静かであるようには見えないものが認識されているとき、その認識は静寂から生じている。 創造的思考は無から現れる。 だが、私がもし思考を超えて行ったとしたら、私はどこにいて、私は誰なのだろうか?
世の中には求道者というものは思ったより多くいるらしく、Kindle Unlimitedでそれらの本がたくさん売られている。
ラマナ・マハルシやヨガナンダの本だけでも大量にあり、読みきれないくらいだが、マハルジやらパパジやらインドの聖者だけに留まらず、アメリカやらのインストラクターやらたくさんある。
ぱっと見たところ、Kindle Unlimitedだけでも30冊以上は優に超える、悟りというのは、ブッダやキリストやら、限られた人だけのものだと思っていたが、そうではないらしい、なんとこんな本まである。
『わかっちゃった人達』
この本はごく普通に暮らしている市井の7名が生活の中で悟りを得たらしく、その境地について語っている本である。
特にインドの山奥で修行するわけでもなく、主婦だったり経営者だったり、サラリーマンだったり、我々とそれほど変わらないような生活をしている人達が悟りを開いたというのである。
悟りを求める者は、誰もが必ず山奥に籠もらないとならないと考えるが、悟りを開いた聖者たちは全員その必要はないと言う。仕事をしながらでも、家庭を築きながらでも、真の自分を見出すことはできるという。
悟りは聖者だけの特有のものだと思われてきたものが、市井を生きる人々の中で発見されたということは、これほど我々にとって救いなことはないだろう。
中古で50円ぐらいだったので、すぐに買った。送料込みで300円くらいだった。300円で悟りが得られるのなら安いもんだ。
7人すべてのそれらの境地を読み終わったが、それらが語ることは、みんな同じことだった、裏で口を合わせたかのように、ぜんいん同じことを言っていた。
さて、前置きがなくなってしまったが、彼らが見つけた悟りとはどういうものだろうか?
気づき。
気づくこと。
気づきの中にいること。
答えから言ってしまうと気づきということである、気づき、非二元論、純性意識、あるがまま、わたしはあるということである。
悟りというのは、つまり、鑑賞者しての態度に留まることらしい。
全て見られるものは全て自分ではない。肉体は見られる。だから自分ではない。心も見ることができる。だから自分ではない。気づきはどうだろう? 気づきは見ることができない。だから自分である。そういうことらしい。
いつも常に気づいているものがあり、それを覆うようにして想念が現れる。思考や心は、気づきを曇らせるもの。気づきから離れて、想念と一つになってしまうために、人はその人ではなくなってしまうということが、彼ら7人が言っていることである。
気づき。
気づくこと。
気づきの中にいること。
思考がよくない。心が良くない。思考と思考の間。心と心の間。思考と心の間? まぁ、とにかく「間」が真実ということだった。間=気づき。
ただ純粋に気づいている状態こそが真実、自分の本体というところに目をつけて、それを実践して、達成したということを綴っている本である。
そのとおり、普通に市井を生きる人が、「純粋に気づいている状態にとどまろう」なんて考え至るはずはなく、彼らは7人とも、ぜんいん、もともとが求道者だったのである。
彼らは元々が求道者だった。普通に会社に行って、ぼんやり過ごしているわけではなく、いついかなるときでも、誰もが悟りについて考え、自分について考え、神について考え、働きながら、生活しながら答えを探していた。
それは大体みんな20年近く探し続けてきているとのことだった。長きにわたり答えを求め続けてきて、やっと悟って、本に書いたのだ。
彼らは、特別に霊能力が使えるようになったとか、そういうことはなかったらしいが、気づきと行動がすべて一緒になるようになったらしい。それが彼らの言う悟りらしい。そのため、以前は(修行中は)忍耐が大事と思っていたことから、他人に対して怒ったりするようなことをなかったし、固く禁じていたが、今は、平気で怒ったり、笑ったり、ただ素直に間髪なく気づきと行動がひとつになったようなことを語っている。
そこに、なにひとつ不安がなく、後ろ髪をひかれる想いが残らないようなのである。
※
まぁ、怪しげだろう。本当に悟ってるの? あなた達が? ブッダやイエスがあんなに苦労したのに? ふ〜ん、あなた達が? と、そういう思いはあるだろう。小生にだってある(笑)
ずっと疑わしい気持ちで読んでいたが、真剣に求道してきたのだと、よく伝わってきた。大体が、いい年齢になってる人たちだった。20年も30年も答えを求め続けてきて、本に書いたのだ。
少なくとも、小生はこう思う。自分が人生をかけて20年も30年もやってきたことに対して、嘘をつきたくないはずだと。
悟ってないのに、悟ったなどとは、ぜったいに言いたくないはずだと、それだけはぜったいにしちゃいけない! と思うはずだろうと。自分の命と見立てて信じてきたものを、嘘という形で決着つけたくないだろうと、そんなふうに思った。その辺りの潔癖性や覚悟は、文章から伝わってきた。だから小生も信じようと思った。
彼らは終わりを告げていた。もう探求することはないのだという。何度も生まれ変わってきて、これまでやってきたことに、やっと終わりを告げることができたという。
小生はなんというか、言葉や文字よりも、ページの波動から伝わってくるもので、この人は悟ってるか悟ってないか判断している。ヨガナンダ、スリユクテスワ、アンマ、肥田春充、中村天風、岡本太郎、これらの人たちは、ページが、文字が、行間が、悟ってると言っているのだ。
この人達の本はどうか? 「わかっちゃった人たち」の人たちは悟っているのかどうか、ページの波動から汲み取ろうとしたが、よくわからなかった。
(笑)
まぁ、みんな、気づきの中に小我が沈みこんでいって、それとともに不安がなくなったらしい。そして、目指す方法としては、「気づき」だけが唯一、純粋意識、自分本体となるものだから、ただそれにあり続けなさい、そうすると、その中に自己が吸い込まれてしまう。心と気づき。その間隔をなくしていきなさい。ということらしい。
まぁ、かなり数ヶ月前に読んだ本なので、もうあまり内容は覚えちゃいないが、確かこんな感じだったと思う。7人が7人、そう言っていた。まぁ、この辺りは、ラマナ・マハルシやアンマだって同じことを言っているから、間違ってはいないと思われるが。
昨今では、アドラーの本だったり、『反応しない練習』だったり、精神世界の奥地にあるものからヒントを経て、このご時世を生きていきましょう、という本が、引っ張りだこになっている印象がある。
物資も豊かになり、少しずつ働き方も穏やかになってきて、アルバイトの時給も上がったり、ミニマリストやらの思想も浸透してきて、精神的に生きる方へと、移り変わりつつあるようだ。
もう今じゃ、Twitterで1日50ツイートぐらいやって、売名行為に暑苦しかったインフルエンサーも見なくなってきた。もうその洗脳は世間では溶けてきたし、そういう人もいなくなってしまった。
次々に消費をして、どこか違和感や疲れを覚えて、一体何なんだろう? 一体ぜんたいこれらは何なんだろう? という問題意識が、この日本全体に芽生えるようになってきているように思う。
コロナ騒ぎと言っても、これからどんどんコロナについて考えたり騒ぐこともバカらしくなり、相変わらずテレビはそれについてあおり続けてはいるが、国民全体がもう飽きてコロナ離れが進んできているようなところもある。
ベーシックインカムが普及して、しばらくは怠惰に遊んだり自由を満喫するが、次第にそれもと落ち着いて、やはりこれは何なのか? この地球はいったい何なのか? 自分は何なのか? と考えるに違いない。
そういう意味からすると、この7名は1歩も2歩も先に進んでいるだけでなく、我々の代わりに考えなければならないものを代わりに考えてくれて答えまで出してくれているのである。
本を読んで悟れるもんじゃないだろうが、心がまがい物、気づきだけが真実、という座右の銘を置きながら生きることに、不都合があるだろうか? これだけでも、多くの人は救われると思うが。