霊的修行

他人など存在するのか?

これは前からちょっとうっすら思っていたことだけど、本当に他人などは実在するのかというところである。

確かに、肌だったり、手や足だったり、空気だったり匂いだったり、他人からありありとその実態は伝わってくるし、表情だったり、心の痛みや、楽しいこと辛いこと、その人に突き刺さった波動や、その人の中を走るものだって、それはまるで自分自身に貫くように感じられるものである。

【他人は実在するか?】

まぁ、それは実際に小生が考えなくても、既にもうその問題について考えて答えを出してくれている人がたくさんいて、その人達が言うには、やはり、他人は実在しないらしい。しかし、何よりも大切に敬い、礼節を尽くさなければならないという。

デカルトは、人間の認識するすべての対象の実在性を疑った。人間もまた人間の認識による対象なので無論人間の存在も疑った。疑い得ないただ一つのものを己の意識と見い出した。

今こうして目に見えるものや心の中のものですら、それらのすべては、映画のスクリーンのように、映し出された影絵に過ぎず、その映像を送っている本体、放映機? のようなものは、本当に、小さな、影も形もない、何もない一点だという。だから、他人もホログラムにすぎないという。自分すらも。

まぁ、こういったことは、スピリチュアル系の本を開けばどこにでも書いてあることだから、もう聞くのもうんざりだろう。

しかし、ホログラムとか、投影だとか、すべて実体がないとか、それを本当に知覚したり実感できる人というのは、まぁいないだろう。このブログにだって誰ひとりもいないだろう。俺だって全く実感できちゃいない。

ただ、それでも、どうしても思ってしまうことがあって。

この世に起こる全ての行為、行動、背景、環境、人間、他人。

出くわすものすべてにおいて、それは仕組まれている、すべて必然的に起こることしか起こらないとしか思えない。もっと言えば、その人の自己が完成するために、神がその人に今ちょうど必要なタイミングで人だったり物だったり、何らかのアクションが、その人にしか乗り越えられないかつ乗り越えられるかどうか、という絶妙なタイミングで与えられるものに気がしてならない。いつもそれはギリギリの難易度でやってくる。もう大丈夫、もうどんなことでも越えていけると思っても、その自信を木っ端微塵に砕かれて、真新しい捨て身の自分にまですべてを脱ぎ捨てないと、どうにもならない問題がやってくる。その問題しかやってこない。それの繰り返しだ。部屋でひとりでYouTube見て寝ているだけの人間が、試練? 何を言っているの? と思うだろうが(笑)

で、これは全部もちろん仕組まれたことだし、やらなければいけないことだから、これをはねのけてしまうと、やっぱり不安だったり、心残りがどうしても残るようにできているようである。

すべて起こるものは起こるし、出会うものは出会うものだから、そこから逃げず、間髪入れずに立ち向かわなきゃいけないらしい。それをひとつクリアすれば次の課題がやってきて、そうやって人間を完成させるための、舞台なんだろうか、この地上は。なんのために自己を完成させるのかはわからないが。

もし、意味があるとしたら。本当に何もない、何もないのなら、これは、ただの、全身全霊をかけた超スーパー規模の、お遊び、ゲームでしかない、ということだ。

まぁ、だからそのために他人というのは存在しているとしか思えないのである。いつも大事なことは、他人や、人間関係のことから気付かされることが多い。

物事だってあるようでないようなものである。ただあるのは二択。いつだって、挑むか引くかの危険な二択しかない。どんなときも、この二択だけがずっと続いてくだけなのである。そしてそれを全て乗り越えていかなければならないらしいのだ。これを、実家に帰る車の中で、音声入力で記録しておく。

他人は、同じ時代、同じ土地、同じリアリティーで持って生きてるような気がするけど、やっぱり幻なんだろうか。だから結局のところずっと人は孤独なんだろう。

すべては自意識、自分の意識が作り出した世界。椅子も机もコップも水もない。ただ、あるのは自意識。デカルトが言っていることだね。疑いようのないただ一つのものは、自分の意識だけなんだ。そしてその自意識は、幅も厚みもない、小さな一点。それは小さいという言葉では形容できないほどの、信じられない大きくて小さい一点だ。すべてそこからきて、すべてそこにかえっていく、見事に驚くしかない一点だ。

どこまでいっても幻影は幻影なのだから、それと一体になることはできない。そうすると、じゃあこの他人とは誰かとなると、神が試練して幻影として使わしている。つまりほとんど神の子分、神が少し自分自身をちぎって、それを地上にばらまいたもの。

「いやいや! 私生きてるよ! ほら、こうして!」

そう、生きているっていうけどね。こっちだって別に聞きはしないけど、生きているっていうに決まっている。この日あの場所であの時間で◯◯をしていたよ、オムライスを食べていたよ! と言うかもしれない。

今も友達だって病院で働いてるんだろうけど、本当に働いているのかね? 俺の目に映っていない範囲のことは、やっぱり神様もサボってるんじゃないのかね? 投影する意味がないし。

まぁ、他人からしたら、自分を実体として見てほしい! 実体として愛してほしい! と思うだろうがね。

まぁ、個人的には、それが実体だろうとホログラムだとしても、どちらでも構わないと思っているが。そういうものだとしたら、そういうものだと割り切るしかない。

別に割り切るから、捨て身になって、思考を放棄して、愛そうって言ってるわけじゃないよ。本気で愛しているよ、本気で、ね。君のことだけは。

でも、まだスッキリしないな。まだこれも少しひねくれが出てしまってる。一番中心の核から1歩ズレた考えな気がしちゃうんだよなぁ。

他人を実体と思わないことで、はじめから期待しないようにして未然に傷つくことから逃げようとしているってことか。こうまでして考えないと、他人に愛されることばっかり考えてしまうからだろうか?

だって、考えてみてごらんよ。世界中の人が、愛されることを考えていたらどうだろう? 世界はめちゃくちゃになってしまうね。でも、どうだろう? 世界中の人が、ぜんいん、愛することを考えるだけになったら、どちらの世界がいいか悪いか、考えなくてもわかることだね。愛されることばかり求めている人間だけで構成された世界、愛することばかり考えている人間だけで構成された世界、どっちがいいか。

いつだって壁に立ち塞がると他人が気づかせてくれる。そのために他人がいるとしか思えない。いつもそのタイミングで、そういう人の、そういう言動に出会う。これは起こるべくして起こったとしか思えない。神が、その人を通して教えてくれている。つまり、他人は全部、試練ということになる。試練ということは、やっぱりどうしたって他人に対しても危険な道の方に行かなければいけないということになってくる。危険な道ってのは、素直な道のことだ。愛する道のことを言っている。

あんまりこんなふうに思われたくないだろうね。でも、こういう考えでないと、愛されるほうばっかり考えてしまいそうになるんだよ。

まったく忙しいな。今までずっと暇だと思ってたけど、人生はやっぱり忙しい。しかし、嘘を綺麗にしようとすることをやめてから、音声入力で一発で書けるようになった。これなら配達の仕事をしても、運転しながらフリーハンドで記事をかけるかもしれない。

まぁ、すべてが自己完成プログラムコンテンツというわけだな。しかし1歩1歩が終局でなければならない。

試練やホログラムに、期待したり依存するのは間違っているのか? やっぱり人は人として愛すべきか? いまだに葛藤はある。まぁ、愛し方もわかっちゃいないが。

神の幻影じゃない。神のちぎり絵じゃない。自分だ。すべて自分自身だ。この世界の何もかもが、自分自身の投影だ。すべて出会う人間は自分なんだ。だから、自分から逃げちゃいけない。試練ってなんの試練か気になるだろう。それはね、愛の試練だ。愛されることばかり考えないで、愛することができる人間になりなさいって、そのために、すべては、愛の試練として、立ちはだかっているんだ。

俺も「愛」って言葉が好きじゃない人間だ。こうして書くだけで虫唾が走る。

俺だって、この考えはどこか不潔な気がするよ。幻影という言葉に逃げているような気がする。

まずは徹底的に嫌われる勇気を持つところから始めなきゃならないな、これは。やっぱり人に好かれようとするからダメだ。人には寛容であるべきだが、嫌われる勇気は持たなきゃダメだ。

すべては幻影か。しかし愛すべき幻影だ。よーし、やってやろうか!

-霊的修行

© 2021 りょういちんこZ Powered by AFFINGER5