スタッフ「はーーい! カット」
広瀬すずこ「……」
菅田勃起「……」
助監督「監督、ドラマの撮影ってほんと大変ですね」
監督「まあね、今日は君は助監督として初めてのデビュー作品なんだから、まあ気楽にやりなさい」
助監督「はい、お世話になります。現場の緊張感がすごくて、私、立っているのがやっとです」
スタッフ「カットカットカット! KitKat!」
スタッフ「ちょっと何してんの! キスシーンだよ! キスしてくんなきゃしょうがないでしょーーーー!」
広瀬すずこ「菅田さんが! キスしようとしないんです!」
スタッフ「え?」
助監督「……」
スタッフ ざわつく
広瀬すずこ「スタッフさん達にはわからないかもしれないですけど、実際に対面している私にはわかるんです。というか、私にしかわからないことなんです! 私にしかわからないことが辛いんです!」
スタッフ「……」
広瀬すずこ「他の人がやってみてくれればわかります。菅田さん、ずっと、『キスすんじゃねーよ』ってオーラ出してくるんですよ! 私はそれを乗り越えてキスしなきゃいけない! さっきから何テイクもこれが続いているんです! 私の代わりになってみればわかりますよ。でも私以外の人にはそういうオーラ出さないのかなぁ? なんなんだろう、なんなんだろうなぁこれ!」
スタッフ「どういうことですか?」
広瀬すずこ「彼、どうやら理由はわかりませんが、私のことを嫌っているみたいなんです! 私からキスしようとすると(なぜ女の私の方ならキスしなければならないシーンなのかわかりませんがっ……!)、キスすんじゃねーよみたいな顔してくるんです! それは私にしかわからない方法で! そういうオーラを出してくるんです! 私にしかわからないということは世間では認知されないということ。ただ難癖つけてイチャモン言っている私という個ができあがるだけだということ! 監督! この行き場のない不条理もカットしてくれませんかねぇ!?」
監督「……」
広瀬すずこ「菅田さんは、女の私が困って、一生懸命に自分を立て直してキスしようとするその挑戦を笑ってるんです! 女性の自信を打ち砕くことを楽しみとしているんです! それが彼の趣味なんです!」
監督「まあまあ落ち着いてください。せんぜん『すず』じゃなくなってますよ」
広瀬すずこ「……」
助監督「……」
広瀬すずこ「こうやって私が取り乱して発狂してわけわからないことを言うようになって、まわりからキチガイ扱いされることもすべて彼の計算ずくなんです。つまり私だけじゃなくてあなた方も彼にコントロールされているんです」
監督「菅田さん、広瀬さんはこういっていますが……じっさいのところをお聞きしてもよろしいですかな?」
菅田勃起「うーん……、見に覚えがないですね」
広瀬すずこ「あー! ほらやっぱり!! ぜったいそういうと思った!! これが菅田さんのやり方です! 菅田さんは、確証があることしか論じないこの社会を逆手にとって、おもちゃにしてるんです!」
助監督「これは……広瀬さんの被害妄想なのか、どうなのか……」
スタッフA「撮影が進みませんね」
スタッフB「もし本当だとしたら、すごくキスしたくないでしょうね」
スタッフÇ「本当なんじゃない? 本当じゃなかったら、ああやって広瀬さんが騒ぎ立てるメリットなんてないよね」
スタッフÇ「メリットでいえば、菅田さんの方にもあるようには思えないけど」
広瀬すずこ「あのー、菅田さん。何をそんなに私のことを嫌っているのかわかりませんが、一応謝っておきます。すいませんでした。見に覚えがないのに謝られたらそれはそれで気分を害すかもしれないですが、一応ちゃんと謝らせてください。すみませんでした。あの、これで納得していただけましたか? お互い大人だし、仕事なので、ちゃんとやりませんか? 私のこと嫌いかもしれませんが」
監督「……」
助監督「……」
監督「「こういう時、やはり女性の方が真面目だ。自分のせいで進行を滞らすこと、周りに迷惑をかけることをひどく嫌う。基本的に、女性の方が男と比べ物にならないほど、仕事に対する取り組みは真面目だ。みんなで力を合わせてひとつの作品を完成させようと働きは、女性の方がずっと優れている」
助監督「え?」
監督「例えばAVや風俗でも、どんなに気持ち悪いオヤジや変態に囲まれても、ちゃんと仕事を遂行する。例えチンカスまみれのちんこだとしても、普通に差し出されれば、舐める。辺りをキョロキョロして、周りが舐めていれば、舐める。「普通」だから「全体」だから、できてしまうのだ。女性の本質は『陰』だ。元々持って生まれたカゴの中の鳥のような性質が、それを手伝うのだろう。同じことを男はできないよ。彼女たちは家庭や社会に自分を捧げる生き方を好んで選ぼうとする。いつだって全体のために自分を犠牲にしているのだ。そしてそのとき初めて彼女たちは自分の生を喜びをしるのだ」
助監督「……。じっさい、キスはデリケートな問題ですよね。夫婦関係もキスにかかっているような気がします。夫の方から、あるいは妻の方から、夫婦関係を長引かせるためにキスをしようとして、そこに拒絶の感情が少しでも見え隠れしたら、もう二度とキスしたくなくなってしまいますもんね。キスほど勇気を試される、捨て身の愛情表現があるでしょうか? 外人たちもキスをするとき、相手の顔に否定感情が潜んでいるかどうか試す意味合いで行われているところもあるのではないでしょうか……?」
監督「ふむ……」
監督「キスをしようとしてくる女性を拒んだとき、たしかにそのとき、女性の精神が再建不可能なほど崩れ落ちる音が聴こえる。女性はそのあと、何事もなかったように皿を洗い、鼻歌を歌って紛らわせようとするが、その流水にあてられる皿よりも、心のなかでずっと激しい涙を流している。たったひとつ、コンマ数秒、キスを迎え入れるタイミングに遅れただけで、そんなことが起こってしまうことを考えると、我々はキスに対して一種の硬直を覚えるようになる。そしてその硬直がまた、キスのタイミングに遅れてしまう硬直となりうる。キスを間に合わせようという硬直が、キスに対する硬直を生むのだ」
助監督「広瀬さんはあと何回これを繰り返さなければならないのでしょうか! 女性としての自信が灰になるまででしょうか!?」
監督「彼女だってキスをしたくないだろう、彼女の方がよっぽどキスをしたくないだろう。しかし、それを乗り越えてキスをしなければならない。なぜならそれが彼女の与えられた役なのだから。そしてそんなギリギリの精神状態で向かってくる広瀬くんの顔面に対して、菅田くんはじっとしていればいい。このシーンは、菅田くんの方にはセリフがないから、彼はじっと黙っているだけでいいからね。じっと黙って、広瀬くんがこれからキスをしようとする心の矢印を、少し外してやればいい。それだけで、広瀬くんはどうやってキスをしていいかわからなくなってしまう。それだけで広瀬くんの心に大ダメージを負わせることができる。最小限の働きで最大限の見返りが得られる」
助監督「見返り……!? いったい何の見返りがあるというんですか!?」
監督「それはひとえに空間を使った遊びなのかもしれない。微細な空間を使った遊び。広瀬くんのこれからキスをしようとする上での緊張感や覚悟、揺れる女心、それらを引き連れながら、ほんとうに、一直線に菅田くんのもとへ向かっていく。たしかにそれは一線のような、まるで彼女のCMの『ねらいうち』のような、光と闇と引き連れた、一直線に向かってくる波動だ。それをすこし外してあげるだけで、広瀬くんはどうしていいかわからなくなってしまう。こんなことがあっていいのか? こんなことがあってもいいのかと、菅田くん自身がいちばんびっくりしているかもしれない。その精神操作はあまりにも身近に行われる。あまりにも身近にあるため、簡単過ぎて、手軽過ぎて、あまりにも自分の近しいところにある精神だから、少し外したり外さなかったりするだけで、こんなに世界が変わってしまう。この、外したり外さなかったりする魔物の存在に気づいてしまったのではないか。もちろん、広瀬くんにだけはバレるだろう。じっさいに同じ空間を共にする広瀬くんにはすべてが筒抜けとなる。しかし、まわりにはバレない。また、バレたとしても問題はない。我々はそこまで彼の心の中を土足で踏み込む権利をもっていないからね。そして仮に進軍したとしても、菅田くんは『見に覚えがない』と言えば済むことだ」
助監督「それにしても、もうTake8回目ですよ、もしそれが本当だとしたら、広瀬さんの女優魂には感動を禁じえませんね」
監督「確かに広瀬くんの女優魂には感動を禁じ得ないが、私がよく行くドトールの店員の女の子たちは、1日に8時間から10時間ぐらいは働いているからね。同じシーンを8回撮り直すのと、どちらがつらいかといったら、判断に難しいところだ」
助監督「ふーーむ……」
監督「一方が鈍感だと、こういったことは発生しないが、二人とも鋭敏だから、二人で気づいている。外すか外さないか、外すか外さないかという問題の中心点、その中心点の存在を二人で見ている。二人にとっては、何よりもその存在がいちばん存在感を持つのだ。二人ではっきりと、その存在に集中しているから、もうそこから目を反らせなくなってしまっている。二人の意識はずっとその存在に囚われたままだ。二人でずっとその存在に苦しめられている。二人とも被害者なんだ」
助監督「菅田さんも被害者なんですか? 監督……一旦中止にしましょう! このまま続けるのはよくありません! いったん止まって、みんなでちゃんと話し合いましょう!」
監督「そうはいっても証拠がないからね」
助監督「広瀬さんの、あの小刻みに身体を震わせながらキスへ挑戦する姿以上に、なんの証拠があるというのですか!」
監督「……」
助監督「広瀬さんが騒げば騒ぐほど、このあとのキスシーンがやりにくくなります。女性の方からキスをしなければいけないというシーンがやはり困難にしているというか……。男はじっとただ座っていればいいだけですからね、監督、このシーンは必要なんですか? 監督! 今からこのシーンを書き直して、菅田さんからキスするシーンにできないのですか? そうすれば今までキスを拒んだ報いがぜんぶ菅田さんに跳ね返ってきます! そうしましょう!」
監督「これが深夜のバラエティー番組に挿入されるVTRドラマだったらそれでいいのだが、月9だからね。それに昨今は受け身の男が多いから、女性からキスをするというシーンを渇望する声は多い。じっさいその方が視聴率が跳ね上がるんだ」
助監督「……私達は無力ですね」
監督「私達もまた社会という薄汚れたドラマのキャストに過ぎないのだよ。これがドラマ撮影というものだ。よく覚えておきなさい」
助監督「……それにしても、私は、菅田さんを許せません」
監督「彼も初めは遊び半分だったのかもしれないのだが、いったんこうして状況が泥沼化してくると、反省して、今度はキスをしてあげようと思ってもなかなかこればかりはデリケートな問題だから立て直しが難しいんだ。ちゃんとキスをしようと構えたとしても、広瀬くんの方で深読みしたり拡大解釈したりで、誤解されてしまうこともありえる。そうすると、今度は、『なんだよ! こっちはキスしてやろうと思ってるのに!』と過去の自分の行いを横において、自身を正当化して怒り出すようになるのだ。実際、私が見たところTake6回目あたりから、菅田くんは反省してキスを迎え入れるような顔になっている気がするが。つまり、今ではもう広瀬くんの方で誤解しているように思う。菅田くんの方はもう次にいっているのかもしれない。広瀬くんの方がその空間の後髪を引っ張っているのかもしれない。あまりにもデリケートだから、このデリケートな気づき。二人とも、デリケートな空間の囚人なのかもしれない」
助監督「あまりにもデリケートで胃もたれがしそうです」
監督「謝る機会を失ってしまって、誤解だけが独り歩きしていく様を、指をくわえてじっと見ているしかない……、そんな経験は誰にでもあるはずだ」
助監督「ご、誤解……!? これは誤解だというのですか!?」
監督「お互い和解して、もうそれに対して言い合ったりすることをやめようということになっても、気を一新できない者同士だと、二人でずっとその空間の闇が訴えかけてくるメッセージを注視してしまうものだ。それはもう彼らの声ではない。空間が囁く声なのだ」
監督「空間が彼らから独立して生命を持ち、彼らに対して働きかける。彼らがもう飽き飽きしたとしても、空間の方から彼らに働きかけているのかもしれない。それは長年寄り添った夫婦に似ているかもしれない。どの夫婦も、もうキスをしなくなって久しいが、どちらも実のところは、またキスというものをしてみたいと思っているものだ。10年、20年たって、もうとっくにそんな段階は過ぎたと鼻で笑って一蹴していたとしても、彼らはまたどこかでキスというものをしてみたいと思っているらしいのだ」
助監督「か……、監督はなぜそこまでわかっていながら撮影を続けるのですか!?」
監督「私もまたこの空間の奴隷なのだよ……」
助監督「奴隷ばかりですね……」
監督「我々は皆この空間の奴隷だ。しかし女性はいつだって、この空間における戦いにおいて男に負けてしまう。彼女たちはいつだってこの戦いにおいて、言語を持ち出そうとする。一般的に女性の方が陰湿で身の凍るような嫌がらせをすると思われるが、男の嫉妬に比べれば可愛いものだよ。男の方が空間を使ったイジメが上手いのだ。本当の陰険さとは、周囲に悟られない、気づくか気づかれないという隙間を、当意即妙で狙うんだ」
助監督「どういうことですか?」
監督「例えば学校のクラスメイトで太っている女の子がいたとしよう。その子が椅子に座った時、ギイと音が鳴ったとするね。そういうとき、世故に長けた男は、思わず『エッ』と純粋な、とても純粋にハッとした目で、その太った女の子を見るんだ。嫌悪や侮蔑や嘲笑の意を完全に排除し、ほんとうに、自然現象のような、脊髄反射的な様で、思わず反応としてしまったという様子で(そう……、思わず反応してしまったという様子で……!)、音が鳴った彼女の方を見る。するとどうだろう? これは自然現象ということになってしまうんだ。自然現象なんだから彼女の方はどうしようもない。自然現象として片付ける他なくなるんだ。そんなに純粋に反応されてしまったら怒るにも怒れない。ただ彼女は不快の念を家に持ち帰るしかなくなる。こればかりは彼女は何も言えないよ。男はこういう嫌がらせを思いつくものだ。これは女には思いつかない。思いついたとしても女性は心が騒がしいから、相手に悟られてしまうものだ」