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Fukiさんへのファンレター 2通目

投稿日:2021-05-27 更新日:

休憩 ①

 

ふう。

(笑)

長いね(笑)

何をこんなにわけのわからないことを書いているんだと思うだろう? 小生だってわかんないよ(笑)

あまりに量が多すぎるから、もう推敲もしようがないよ(笑) 推敲したくても、もう頭が働かないんだ(笑) もうこのまま放出しちゃうけど我慢してくれ。

頭のいいFukiさんならすぐにわかったと思うが、「休憩①」があるということは、「休憩②」があるということだ。つまりまだまだ続くということだ。ちょうど今、半分地点くらいだ。

初めはこんなに書くつもりはなかった。返事もいらないと言ってくれていたしね。

ハッとするもの、洗練されたもの、元気付けるだけの言葉をまとめて届けようと思ったが、どうもそんな器用には行かないようだ。

あるがまま。フワッとでてくるもの。それが核だとしたら、それを書き殴ってしまうのもいいだろう。

人間、自分の中から純粋に湧き出てきた言葉、それが最上だ。それ以上の言葉はない。人が、本や他人の中に答えを求めるのは、自分のその声が正しいかどうか確かめたいからだろう。カエサルが言うように、人間は信じたいものしか信じない。

Fukiさんのブログを読んでいてわかったけど、何よりも、FukiさんがFukiさんに向かっていっている言葉が最上だよ。道に迷ったら自分のブログを読み返してみるといい。あれは魔法だ。天才の仕事だ。あれ以上のものはない。すべての答えはあそこにある。言葉も服と一緒で、自分に合ったものを身に付けるのがいい。

小生も、多くは肥田先生と岡本太郎の言葉で占められているけど、それでも、純粋にいちばん自分の中から生まれた言葉を信じる。その言葉は、その人にしかない、その人だけに与えられたものだ。

現在は現在としての権利を要求している。日々詩人に思想や感情を通じて迫ってくるものは必ず表現されることを要求し、またされなければならない。ゲーテ

詩人が日々現在の与えるもののみを掴み、提供されたものばかりをいつも清新な気分で取り扱っていると、確かにいつも立派なものができるだろう。そして、たとえそれがたまたま失敗しても、何の損にもならない。ゲーテ

この私の忠告によって、恐らく君は君の現在の立場にふさわしくない一時期をすばやく通りすぎてしまうことができるだろう。いま言ったように、まず君が小さい題材を、日々君に提供されるような事を、絶えずすぐ作っていたら、大抵立派なものができるだろう。そして毎日を楽しく暮らせるだろう。何よりまずそれを年鑑や、雑誌に書きたまえ。しかし、他人の依頼でしないで、たえず君の思うままにやるようにしたまえ。ゲーテ

しまるこさんは一度、私に表現のなんたるかを教えてくれたことがある。「理念とか思想とか、そういうのはいらなくて、ただ思ったことをそのまま書けばいい」。彼がそう教えてくれたから、私はブログを続けられた。しまるこブログに出会ってなかったら私はとっくにブログを書いていないと断言できる。「もう言葉言葉うるせーー!!」とヤケになってブログごと消しているはずだ。

思いっきり書けばいいんだ。Fukiさんの胸の中から、ふわっと浮かび上がってくる言葉があるはずだ。それが最上だ。

確かにその文章は最上だ。ひとつも手直しを入れる必要はない。一つでも加えたり削ったりすれば、嘘のように崩壊していってしまうだろう。そうはいってもFukiさんは疑問を覚えるかもしれない。ではなぜ私は今だにアマチュアなのか、金を産まないのか? あなた(しまるこ)も金を産まないのか。あなた(しまるこ)は何なのか。

Fukiさんがそこに存在しているだけで完成されているように、あれらの文章はあれで完成されている。本当に、あれ以上のものはないんだ。だから続けることだろう。FukiさんはFukiさんの仕事をすればいい。あとは運命の仕事だ。

Fukiさんの中で胸の中で熱く燃え盛ったもの、胸を貫く何か、それ以上の何があるだろう。それは確かに人の胸も打つ。届かない人もいるかもしれない。それはそれだけのことだ。小生にはちゃんと届いている。他にもたくさん感銘を受けた人がいる。だから、ただその胸の輝きを宇宙に向かって放射してやればいい。それが表現者として生きるということだ。

Fukiさんがものを見て、まっすぐに感じたものは、ぜんぶ価値があるものだ。それ以上のものなんてないよ。生きていれば色々浮かんでくる。小生はそれを表現してやろうと思っている。それをやりきるだけだ。いつかね、とあるブログに、「今日もしまるこさんは元気に抗っていた」と書かれてあって笑ってしまったよ。そう、今日も元気に抗ってやるのさ。

ヘッダーにこんな画像を貼り付けている男がいうセリフではないがねw

また暑苦しいことを言ってしまった。ぜんぜん休憩にならなかったね。

ブログ書かなきゃ、観光しなきゃ、時間がもったいない、とか、日本に帰ってどうすんの、とか、しるか。

私はいま、幸せなんだ。ごろごろするのが好きなんだ、朝寝坊が好きなんだ、このベランダから見てる景色が好きなんだ、幸せなんだ、幸せなんだ、だから、もう義務なんてなんにもない。

やらなきゃいけないことなんて、ほんとは何もないんだ。ただ、ここで、いま私が幸せでいることの方がずっと実質的で、ああ、ここに来れてよかったなあ。

ブログ、書かなきゃいけないなんてことは、ないんだ。いつでもやめてもいいもんねーだ。

ヨーロッパで3カ月くらして分かったことは、人間は、どこに行っても同じ人間で、だからこそ、人はどこにいても、等しく幸せになれるはずだということ。

どこに行っても太陽があって風があって、どこにも街があって人の暮らしがあって、夜があって朝があって、どこに行っても、嬉しいことで笑うし、悲しくて泣く。どこに行っても、笑顔は同じ意味を持っているから、わたしたちはたぶんどこにいたっていい。

それでいいよ。でも、ずっと意識が沈澱していって、胸の奥底に溜まって、動かなくなったとき、それは輝き出すんだ。Fukiさんは描きたくなるんだ。いいんじゃない? 24歳でこれだけ書けちゃうなんて凄いよ。

まぁ、あまりこうしてわかったように語られるのは嫌かもしれない。身近な人のことを書くのは苦手なんだ(笑)ちんこがどうとか言って悪かった(笑)

Fukiさんの魂と向き合ってみたくなったんだ。それは小生のためでもある。もう自分でも何を言っているかわかったもんじゃないけどね。書かないのはもっと苦しい。

こんなに量が多いのを書くのは初めてだから、一週間やそこらじゃ推敲が間に合わないんだ(笑)そして字を見すぎて胃もたれを起こしてしまったから、もう手直しすらできない。おかげでしまるこブログ最長の記事だよ(笑)

 

 

6 Fukiさんと恋愛

 

「結婚するメリットは、結婚相手を探さなくてよくなることです」

そう言ったのは2ちゃんねる創設者の西村ひろゆき。ある意味、というかかなり的を得ているように思う。

まあこれ以上、年齢や結婚に関して私が思うことは特にない。私の言いたいことはひろゆきが一言で言ってくれている。

男女も、出会うべき人が出会うべき人の横にいないから、人は苦悩する。お互いの存在を求めている人は山ほどいるのに、「いるべき場所にいない」というだけで不幸になる。だれかが「いるべき場所にいる」というだけで、人間が2人も幸せになる。

ほら今年も、冬の雪が山を凍らせ、その雪解け水が、夏の恵みとなる。水にも「あるべき場所」がある。エリマキトカゲは日本にいるべきじゃないし、ホッキョクギツネはミャンマーにいるべきじゃない。森にあるべきなのはコナラの木、海岸線にあるべきなのは松林。サワグルミの木は川辺にしか生えない。(は?)それが混沌となすとき、わたしたちは、生きてはいけない。

「あるべきものをあるべき場所に置くだけで、世界のほとんどのことはうまくいく」

世界をよくする魔法の呪文を教えよう。

ごみはごみ箱に。

ハサミはハサミ置きに。

体温計は薬箱に。

分解作業が得意な人はプリンター工場に。

接客が得意な人はタリーズに。

電車が好きな人はJRに。

表現が得意な人は表現の世界に。

強烈に新しい「精神的つながり」が欲しくなった私は最近マッチングアプリを再開させた。3人と会った。しかし、本当に求めているものを提供してくれる人はいなかった。彼らにとっても、私から差し出せるものは何もないように感じた。

重っ。重いわ。そんな感想言う女の子と誰も会いたくないわ。だって本当のことだもの。だから私は「こんにちは。」「はい、では。」「さようなら。」と言うしかなかったんじゃないかー。

私は自分が何を求めているのかも分からない。なんなんだ、この「違和感」。

しかし最近、よく分かったことが一つありました。

それは、わたしはこどくにはいとも簡単に負けるということ。

確かに、恋愛の味を人より10倍も20倍も噛み締められる体質に彼女は生まれた。異性と手を繋いで、抱きしめあったら、彼女よりそれを十全に味わうことのできる人間などいない。恋愛ソムリエである。

私は、頭の良い男の人を見るとポーっとしてしまう。誰かがふとスゴく賢い発言をしたり、瞬時に難しい計算をしたりすると、「あーー、すげーー、この人の脳内でいま回路が飛び交ってるんだな。すごいな、見てみたいな。」と思って、その壮大な回路、ぜんぶ頭蓋骨に収まってんのすごい、と感心してしまう。

私は手フェチだけど、それと同じくらいに脳フェチです。(なんかきもい。)メンタリストDaiGoとひろゆきの論破対決の動画とか、あれは一種の興奮を覚えちゃったな。でもこれが恋愛感情かどうかは分からない。メンタリストDaiGoがいま目の前に現れたとしたら、私は彼にアプローチするよりも先に背を向けて立ち去るだろうから。頭のいい人を見ると、恋心というより、無条件降伏したい気持ちに駆られてしまう。で、お互いの人生、あまり関わらない場所で、目に見えないところで元気に存在しててほしいなと願う。それが幸せだと思える。

↑アダルト・ビデオ

アダルト・ビデオはいいね。小生が言ったらつまらなくなるけど、これはFukiさんがいうと面白くなる。

確かに女性は、頭のいい男を見ると逃げる。心臓に釘が刺されるが、破れてしまうのだろう。

とにかく私は知的な人に弱い。ああ神さま、私の前に知的で、話が合って、友だち以上の絆でもって話せる、ステキな男性をもたらしてください。とここ数年祈っていた。

…で、突如叶った!

彼は先に紹介した、マッチングアプリの彼だ。外国の大学院を出た文学士。彼とは実は最近になって2度目会った。政治のことだとか、宗教のこと、日本と西洋における「瞑想」の違いとか、相対性理論のこと。私たちはかなり熱くなって色んなことを語り、どんな話題にもいちいちレスポンスしてくれる彼はやはり面白かった。

 

スタバで4時間話した。ふう。で、

「…だからなに?」

という虚しさがよぎった。

彼は知識をいっぱい持っている。面白い。私の話も聞いてくれる。ユーモアもある。で、だけど、「だからなに?」。そんな謎の空間に私は突如放り出されて、腑抜けた感じになってしまった。私は自分の中にある情熱を誰かと共有したかったはずで、彼からも新しい栄養が欲しかったはずだ。で、それが叶ったわけなのだけど、、私は私で一人でそれを追求している方がキラキラしている、というか、やはり情熱は自己完結しているうちがいちばんきらめく感じがしてしまった。感覚的に。

それを共有できるかどうかって、なんか、そんなに大切なことなのかなぁ、とか思い始めた。

私はいま次元のことで頭がいっぱいだけど、じゃあ彼が同じ熱量で「4次元とは…!」とか語ってきたら、うざいと思う。あっそ、という感じがする。こう、ああだこうだ、3次元空間の歪みがどうたらとか光の速度がどうとか話してると、うるさいな、それより黙って太陽を浴びろよ、という気がしてくる。私が彼に見たのは自分自身への嫌悪感だったのかもしれない。でも、たとえば松本城の広場でひとり太陽を浴びて恍惚としている男性を見たとしても、私は彼の目の前を何も言わずに通り過ぎてしまうんだけど。

たぶん、結局くだらないんだろうな。私の情熱は。自分の中にあるうちが煌めいていて、それを言葉にしたり目の前に現実として叶った途端にやっぱり「あっそ。」という感じがしてしまう。「だからなんだって言うんだよ」。

で、文学士の彼とも結局、別に次に会う理由はないな、と思ってしまった。これじゃ「メリットがない」とか言ってた赤池氏と変わらない。私はないものねだりの気分屋でわがままな奴なんだ。ちがう。ちがくないけど、言いたいのはそれじゃなくて、

・頭がいい人〜

・手が綺麗な人〜

・ユーモアのある人〜

とかタイプの条件を並べたってこんなのまったく無駄だな、という気付きです。

結局、わたしはだれにも何も期待していません、という姿勢がとても楽だったりする。誰ともお付き合いしたことのない人が何言ってるんですかって話だけれど(笑)ついでにもう一つ、タイプの男性を挙げるとすると「放っておいてくれる人」なんだけど、なーんだ、そういえば、ほぼ全世界の男性じゃないか笑

「あなたのことをずっと待ってた」

「何のために?」

「私を放っておいてくれるために」

いつか何かの映画で見たこのセリフがなぜか忘れられない。

現実は深層心理の写し鏡だというけれど、そう、私の望みはいつの瞬間も叶っているのでした。という虚しいオチ。

私は結婚したいのかな?

特に、この記事は狂気。狂気である。現実世界に結婚の希望を見いだせなくなった彼女は、フィンといわれるアニメのキャラクターと結婚し、その結婚生活や、結婚生活の問題点をすべて洗いだして、フィンと結婚したら上手くいくのか? と夢想する。

フィンが結婚したとしても、フィンは今まで通りにアドベンチャーをすればいい。私は今まで通り、まあバイトしたり漫画描いたり散歩したりするだろう。フィンも私も、フィンと私でしか在り得ない。なのに、結婚してるが故にフィンが森の中で眠りたい日に「家に帰らなきゃ」って思わなきゃいけないなら、、私のために「こうしなきゃ」ってことがあるとしたら、そんなのって何の意味があるんだろう。

フィンはフィンで、洞窟を探検すればいい。火星へ旅に出ればいい。私はフィンの人生そのものを、今よりもっと充実させる力なんて持っていない。フィンはフィンであることしか、フィンを満足させない。私は私で、フィンと結婚したって、ツリーハウスで暮らすってことぐらいしか変わらない。なら、フィンが私と結婚しなきゃいけない理由なんてあるのか?ないよ…。

仮にフィンの結婚したい理由が「老後寂しくないように」とかであれば、フィンは将来、狩りの魔法使いと一緒に森で暮らせばいいと思う。彼女はフィンと同じ冒険者だから、きっとフィンを理解する。2人は助け合い、ずっといい友達でいられると思う。

だから私はフィンと結婚しなくていい。し、私も別に誰とも結婚しなくてもいいと思う。なのにフィンに結婚しようと言われたら、私は「はい!!」と言ってしまう。

なんなんだろうー。

こっちがなんなんだろうー。である。これも本文からわずかに抜粋したに過ぎないが、本文では、ずーーと、ずーーーーーーっと言っている。おまけに最後はフィンの幸せを思って、アニメ内の女性キャラクターにフィンを譲って彼女は去っていく。妄想の中だというのに現実を取る。妄想までぬかりがない。これを漫画化すればいいのにと思ってしまう。

私はしとやかにウンウン、とか言って相手の聞き役に徹するのだが、初めて自主的に発言するという段階に来たと思ったら「いやー、4次元時空がですね」「貴方は文章は言葉で読む?リズムで読むか?」「自分を無宗教だとまじに思う?」とか気分をダダ下がりさせることばっかり言うから、デートもムードもへったくれもない。相手は帰りたくなってしまう。そんなのは彼女には誰も求めていないっつーのに。知らんけど。

こういう恋愛がしたかったんだろうね。

まぁいい。

現実に、私は結婚したいとはっきりと言えるほどにはその願望はない。これは強がりでもなく、本心でそう思う。どっちでもいい。というか、する時にはするだろうし、しないならしないだろう、と思っている。状況次第、成り行き次第だし、仮に将来どうしても結婚しなければいけないという状況が生まれても、婚活パーティーにでも行けばできると思う。相手もそのつもりでその場に来ているんだから、簡単なことなんだろうと思う。

簡単だよ。

 

 

7 Fukiさんと葛藤

 

 

わたしたちは得てして、自分で「答え」を持っている。

しかしそれを言語化できないでいるから、人に話したりする。あるいは、何か言ってほしい言葉があって、それを知っているのに、ほかの人の口から言ってほしいから、それを待っていたりする。

私自身、先月よりモヤモヤの中にいて何度も思ったのが「だれか私の話を聞いてくれ」ということであった。

だれか(全く面識のない人が好ましい)に目の前に座って、ただ話を聞いてもらいたい。「私はこういう人間でこう思っている、こうしたい、これが好き、これがつらい」、と。そして、「うん、うん」って言ってほしい。で、「よくやってるね。あなたは素晴らしい人だから、思うままに進めばいい。わたしはあなたをただ肯定する。」と言ってほしい。。。

なにより「肯定」が大切だと思っていた。あるいはねぎらいの言葉。「すごいですね。偉いですね。それは、大変ですね。」…でも、よく考えたら、もしかしたら、そんなふうに言ってほしくない場面もあるかもしれない。。。

こちらがなるべく無になって。傾聴にもたぶん同じことが言えて(いや、ぜんぜん分からないけど)、聞く側ができることは、相手の良いところをいち早く見つけようとしたり、相手を「判断」することじゃないんだ。、、、私ができることは、、ふとした瞬間に出てくる、彼の「核」を見逃さないことだ。

その「本音」とか「ありのまま」、とは、別に特技とか他の人より秀でているものじゃなくていい。自然体で話すその本音の中に、ふとしたときに「はっ」としてしまうものと出会う。どこで「はっ」とするかは、相手に任せればいいだけだ。

私は、そうやって思ってることをきれいに口にできることこそすごいと思うけどな。立派な表現だと思うけどな。どんなアートも、生きてる人の「ありのまま」のその姿や心には敵わないところがあるから、その想いだけで十分表現に足るものだと思うけどな。

また、核を引き出すには「質問」が大切だと個人的に思っている。たとえば私自身、2年前にヨーロッパ旅に出たのだって、旅のお供アンちゃんに投げかけられた「時間とお金が無限にあったら何がしたいか?」という質問をきっかけに自分自身を知ることができたのだ。

質問は、できない(笑)

Fukiさんがブログで語ったことを引っ張り出してきて、小生が勝手にブツブツ言ってるだけだからね(笑)

まぁ質問しあえる時は別の機会にして、今回は勝手に小生の憶測で話を進める。

女の子は自分の気持ちをわかってほしいけど、わかったように言われると、アレルギーを起こすから大変だ。今だによく小生は女心というものがわからないからね。

ちなみに、上の文章だが、小生もそう思う。それは確かに作品にも言える。小生はFukiさんがモヤモヤしたものと戦ったりしている作品も好きだが、どちらかといえば、フッと現れる笑顔や軽妙なものの方が好きである。

なぜ私はこんなにも「生き方」に興味を持って、「価値観」の違いや「自由」について再三考えているかというと、そう、もっと「リラックスして生きたい」という気持ちが私の根底にあるのだと思います。

じゃあ今まで、リラックスして生きてこれなかったのか?

…恐らくそうだと思います。

それは日本のココがいけない、コレが原因だ、と今すぐ言葉に表すことはできません。

しかし、いつも見えない何かに圧迫されて、少しの違和感を感じて生きてきたのは確かです。

何が苦しいのだろう。

豊かなこの国で、何が私を締め付けるのだろう。

彼女はこれに対する答えを持っている。

では行ってきます。

不安なことも100くらいあるけど、

まあ、気楽に考えて、、

きっと楽しいでしょ♩

このように。

深夜2:00、歯磨きをしながらサボテンを眺めていた。でも、そのとき使ってた歯磨き粉だって何からできてるのかさえ分かっていなくて、ああわたしはいつまでもこうやって頭が狂ったまま、なにも分からないまま生きていくしかないのかなー、などと思い、ばかだなぁ、と。

眠たくて眠たくて、最近はよく、休日は昼3時まで寝ちゃったりする。

気持ちがわけ分からなくなって、意味のないことを言ってしまったり、と思うと、意味もなく10kmくらい歩いちゃったりする。本棚見ても、もはや何もときめかない。

「いや、『邪念』というか『雑念』ですね。たとえば漫画を書こうとして机に座ると、ああでもないこうでもないと、関係ないことが浮かんできて、手が動かせない。雑念に取り憑かれて、自分がなんのために机に向かっているのか、なんの目的のためにどこに向かっているのかがぼやけてしまって、何もできないまま時間が過ぎていくんです。」

漫画を描くことが楽しいかと聞かれると、楽しくないです。うまく描けないから苦しい・苦しい・苦しいし、しかも漫画を書いている最中、私はずっと「面倒くさい、面倒くさい」と思いながら描いています。とにかく面倒くさい。

下書きもめんどくさいし線描きもめんどくさいし、背景描くのなんて地獄だし、セリフ入れるのもめんどくさい。そして漫画を描くのはむずかしい、と思ってる割に、漫画を描くというのは圧倒的に「作業」が多いので、頭の中は暇な時間が長ーいです。だからずっと「あーむずかしい暇だなぁめんどくさいなぁ」と思っています。私が漫画を描いているとき部屋の中には悪い波長が飛び交っています。

楽し、くはないですやっぱり。

そしてそんなに頑張って描いて、何十時間もかけて描いて、なのにできあがったものは世界のゴミにもならないほどのゴミみたいなので、恥ずかしくてnoteにさえ上げられない、描き終わって自分で読んでも「なにが言いたいんだ」と思うようなものを、雑誌社に投稿してみてまた「なにが言いたいのか分からない」と評価されてしまう。そんな漫画を仕上げて、「これは何も産んでない。描くためのエネルギーを宇宙に放出しただけだ。」と逆に遥かな気持ちになるような、そんなのを描いています。その繰り返しです。

しかし、その苦しい時間の中に、たまに、一瞬、ものすごい喜びというか、すごく、大切で愛すべきものに触れてる瞬間が、訪れることがあって、これが辞められない理由です。すべての無意味さや疲労が帳消しになる、それはすてきな瞬間です。

その瞬間に触れるのは人によって方法が違うと思いますが、人はそのために生きたっていいと思います。たとえそれがお金にならなくったって、他人にとって意味がなくったって。

これは小生がとくべつ好きな彼女の漫画の一つだが、たった4ページで、「何かをしなければならない。何者かにならなければならない」そんな声に嫌気がさす彼女の心模様がよく表れている。

 

『すてきな情報処理

 

 ↑「インプット」! と、「煽ってんなー」がとくにお気に入りである。

別の漫画では、そんな彼女を元気づけるキャラクターが登場する。

 

最近、日本に住むチェコ人のお友達が言っていました。

「ニホンは、新しい建物ばかりで、イヤになりマス。作られた世界で、自分がニセモノみたいに感じられてキモチワルイ。ヨーロッパが恋しいです。古い建物がたくさんあり、美しいデス。」と。

知るかい、そんなん。だからってなんなんだ。そこに生きてる私たちは、肯定するしかない!目の前の景色が気持ち悪くたっていい、嫌いだっていい、ただ「そこに生きている私たち」を肯定する、ここで生きてゆく道はそれだ。それが、美しいことでしょう。

新しい時代だなぁっていつも思ってます。生きてることに意味付けしなければ生きづらいこの世の中。そこで、「ただ生きること」を肯定することは、新しい「美しさ」であり、強さなんだって、思います。

まあ、あれだ、一緒に暮らしている家族に優しく接すること、家の中をきちんと整理すること庭を綺麗に保つこと、それを全部できてる人なんてこの世にいるのかなって思うけど、なんで難しいかって、結局そこが一番真実だからだろうなぁー。

台所にいるとおばあちゃんに興味もない韓ドラの登場人物の説明をされイライラしてしまう。おばあちゃんとは時間の体感も興味の範囲も違うのだから優しく対応しよう、と毎日誓うのだが今日もまたうまくできず。

友達も去っていくし、Youtubeもなんだか以前に増してうるっさいし、今まで聴いてきた音楽をなんだか聴きたくなくなってしまったし、強烈に新しい「精神的つながり」が欲しくなった私は最近マッチングアプリを再開させた。3人と会った。しかし、本当に求めているものを提供してくれる人はいなかった。彼らにとっても、私から差し出せるものは何もないように感じた。

私の住む町は半田舎のため田んぼや畑がぽつりぽつりと残っていて、かたや向かいには日に日に新しい家が建つような、新興住宅街でもあり、自然と人工とがこんざいしている。

すると、田んぼで育った若いカエルが、いざ、外の世界へ!と張り切って道路に出たとたんに車に轢かれてぺちゃんこになってしまう、なんてことは毎夏、毎日、毎時間起こっていることなんだけど、私はこのことが、ほんとうは、頭がおかしくなるほど嫌だ。

(中略)

はあ、今年もまたいのちがめぐる夏がやってくるぅ。いのちの芽吹き、なーんだか憂鬱。そう、私が夏といって思い浮かべるのは、温度と壮大ないのちの炸裂、して、その生々しい真っ赤な血たちなのです。お盆には、おお、なんと数多の魂が空へ昇るのだろう。目には見えないけれど、ぜんぜん。彼らは何を想って半年にも満たない命を過ごしたのだろう。ごめんねカエル。ごめんね命。夏。いのちの憂鬱。こんなもの最初から全部なければいいのにね。でも夏を過ごし温度を享受することでしか生きられないから、大好きな夏だけど私の心はブルーになる。

でも寒いのは嫌だけどね!!!!死あるのみ!!!

昨日、お風呂に入る前に鏡を見ると、自分が変わっていたのに気が付いた。

なんか、すごい「26歳」っぽくなっていた、いや、大人になっていた。

ところで最近まだ違和感が続いている。先1月頃から続いていた、「違和感」、「変わりたいという衝動」。まだ続いている。いいけどさ、、、な、長いよ!!!

見ている人のことも考えて、暗くなり過ぎないようにする。彼女の対人関係を表しているようだ。動画でも、暗い話をしても、最後は笑顔になる。

地球に生命が誕生する確率は、バラバラに分解した目覚まし時計を25mプールに投げ込んで、水流だけでもう一度組み立てられる確率と同じだ、という話があり、まあここ地球が奇跡の星であることは確かなのだけど、ではこの宇宙に星がいくつあるかと言うと、地球上にある砂の粒の数より遥かに多い数あると言われていて、こうなってくると途方もなさすぎて死にたくなってくるような。(調べていて本当に鬱になった)

悩みが地球規模だから大変だ。

この世は空である。それは真理かもしれない。私たちはいつも「錯覚」の中で生きているのかもしれない。しかし、その錯覚の中で生きているからこそ、目の前に物があり生活があり、私たちが確かに「存在していること」は否定できませんよね。そりゃ、この世にはなんにもないんだよ、と言えたらいろんなことが楽になります。わたしが見えてるもの、これすなわち錯覚なり、ぜんぶ気のせいなり。と開き直れたら、どんなに楽になるでしょう。

でもそんなこと言ったって、やっぱり指を針で刺したら痛いし、人に嫌なことを言われたら嫌じゃないですか。どうやってもお腹は空くし、美味しいものを食べたらやっぱり「うれしい」じゃないですか。それを「無いこと」とはできないじゃないですか。そう。私たちは現実に存在していることを否定することは、たぶんできない。かなしいけど。

「現実」と「空虚」を同時に受け入れることは難しい。だってこの世が「空」であると理解したところで、次の瞬間待っているのはいつだって現実の「くそくだらない」現象じゃないですか。そしてそれと戦っていくのは「空」ではなく、紛れもない、境界を有し肉体であるところの「自分」じゃないですか。お勝手口のドアが壊れただの毛布を洗わなきゃいけないだの、洗面所が汚いだのゴミ出しは火曜日だの。ね。

だからやっぱり生きているうちは「現実」を否応なしに受け入れていくしかない。それが好きでも嫌いでも。それが虚しいよね。錯覚だと分かりつつも、その境界線を「あるもの」として扱うしかない。たとえば道の向こうからトラックが向かってきたとき「いや大丈夫、あれが輪郭を持ち質量を有しているかのように見えるのは、ぜんぶ気のせいなのだよ」とか言ってたら轢かれちゃう。現実的に。

「あらがえない『偶然』を自分として生きること」。

庭のウン。

思えば、過去の自分のように、就活ひとりでやめたり2日でバイトをやめたり、ヨーロッパに行ったりする、、、私には今もう一度あの勇気が必要だ。心の赴く方へ進む生き方が必要だ。忘れていた。それが正しいとか間違ってるとかじゃなくて、あの勢いが必要なんだ!!!!!自分の漫画からそのことを思い出さされた。

これだけ言葉が蔓延ってこねくり回されてる世の中を見ると、思想や信念なんかより、実体や行動の方にこそ意味があるのかも、とか思ってしまうんです。空虚な議論より、ゴミの一つでも拾うことのその有意義さよ。

だから私もブログやまんが描いてないで、古着のリメイク屋さんでもやろうかな、とか真剣に最近思ってしまうわけです、うーむ。

しかし私はこの「行動」というのがイマイチ分からない。というのも私自身、問題に対して何か「行動」を起こしてそれが解決されたという経験が人生でほとんどない。個人的に、起こった出来事への「解釈」とか「考え方」を変えることでの方が救われてきた。要するに、私自身が受け身で生きてきたのだ。どこまでも自己完結型。だから物語を描いてもいつも「主人公が受け身だ」と指摘されてしまう。

だから、「そもそも行動ってなんだろう?」というところから始まる。

行動って、なんだ?

あー何かを変えなきゃ死ぬ予感

・掛け持ちバイト一旦全部やめる

・キャンピングカーと土地を買う(ためにお金を貯める)

・タイに行く

・貯金が尽きるまで何も決めない旅を日本でする

キャンピングカー暮らしはほんとうに理想です。エコ的にも、人と人とはある程度離れて暮らす方がいいという人類共通の性(さが)的にも、個別の小さなところで慎ましく暮らすことは最高なんだ!!とてつもなく未来的なんだ!!水は川から汲んでくるよ、パンツは2枚あればいい。じゃがいもだけでいい、食べるものはもうじゃがいもだけでいい!!!あれは手入れのいらない本当に楽な野菜だった。キャンピングカーと土地を買って、隣に小さな畑を作って、1人で暮らそう。ゆくゆくはソーラーパネルも買って自家発電。最・高。

最・高のセンスがいい。パンツ2枚かぁ。

行動、行動、行動、次、次、次……次のステージ。と彼女は取り憑かれたように繰り返す。

だれか(全く面識のない人が好ましい)に目の前に座って、ただ話を聞いてもらいたい。「私はこういう人間でこう思っている、こうしたい、これが好き、これがつらい」、と。そして、「うん、うん」って言ってほしい。で、「よくやってるね。あなたは素晴らしい人だから、思うままに進めばいい。わたしはあなたをただ肯定する。」と言ってほしい。。。

求む、ただ話を聞いてくれるひと!!ただ目の前でお茶を飲んで、「うんうん。そっか。」って言ってくれるひと!!!!あわよくば、自分を掘り下げる素晴らしい質問を適宜投げかけてくれるひと。「あなたは何がしたい?」「結局あなたは、何が怖いの?」とか。そういうサービスがないかと思った。カウンセラー?いやもっと、ライトな感じでいいんだ。しかし、案外、ないないない。。

えーいこの際、自分でやっちゃえ!と、先月、試験的にTwitterにこんな投稿をした。

(笑)

彼女はなんと、自分が悩んでるのに、他人のお悩み相談室を始めてしまった(笑)まぁ、実際、他人の核を見出すことで、ヒントを得られると思ったのだろう。

占いに行く。

「次のステージにいくには…」

・感じたまま表現できる力を養いなさい

・思考を消すこと

・無になる訓練をしなさい

・呼吸法を使って。瞑想は危険なのでNG

・自分を解放せよ

・他人の評価は気にするな

と言われたらしい。

ほかにもいっぱいあったのだけど、なんだかぼーっとしてしまってよく覚えていない。

「思考がじゃまをしている。無になる練習を。」

と言われたのがいちばんピンときた。

彼女は占いにまで行ってしまった。しかし、ここまで行動できるだろうか? 彼女は自分を行動力のない人間だと思っているが、間違いなく、行動の人である。

本当に、彼女は少女漫画の主人公のように、いつもドタバタしている。犬が歩けば棒に当たるように、彼女が歩けば葛藤に当たる。彼女はもう答えを持っているのに、やはり葛藤する。自分の中から発生してくる一つひとつの葛藤を、我が子のように抱きしめて離さない。漫画、ブログ、恋愛、環境問題、日本とヨーロッパ、ゴミと精神、現実と夢。いつも二律背反した矛盾と戦っている。

それらが電波のように空気の中に飛びかっている。解決したと思ったら、また同じ悩みがぶり返してくる。言葉にできるものならまだいいが、ほとんどは、言葉にできない、散漫な倦怠感。それらをいつも感じ取ってしまって忙しい。心とおしゃべりするのは好きだけど、うるさすぎるときがある。そういうときは、心を取ってもらいたくなる。太陽が心を取ってくれる。

彼女は太陽を求める。

春っすねぇ。天気がよくて太陽が暖かいだけで幸せになれるのは我ながら得な体質だと思う。朝起きたあと、窓辺で太陽浴びながら本を読む時間はほんとうに至福。だいすき

 

太陽といるときの彼女は、何もないように思う。あれほどうるさかった心の波が静まり返っている。一点の曇りもない。嘘みたいな状態だ。

彼女は自分のことを行動力がない人間だと思っているが、小生はそうは思わない。小生は彼女以上に行動力がある女性を知らない。タイに留学する。就職はしない。バイトはその場で辞める。宇宙飛行士のインタビューを見てすぐに農業をやりだす。そしてお金を貯めてヨーロッパに行く。6カ国回る。精神に至っては地球の端から端までいつも旅をしている。自分を変えるために、本当の自分の人生を生きるために、どこまでも行動する。部屋で悶々とすることだって、立派な行動だ。精神界の旅人なのである。

問題に出会ってすべての問題を持ち帰り、部屋でひとり内省し、煩悶苦悶といったものを、面積の許す限り並べている。無数の壁に当たっては、ブロック崩しゲームのように、壁を壊して壊して壊して次のステージに向かおうとしている。これを行動といわずになんと言おうか。Fukiさん以外に、だれがこのゲームをクリアできようか。

まぁいい。「あなたの中にあるその人にかんじるもので書く。えがいてあげる」と占いの人が紙に書いていたね。小生の中にあるFukiさんがかんじるものを書いてみるよ。

「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ」サン・デグジュペリ

Fukiさんはサン・デグジュペリのこの言葉をよく引用する。小生も中村天風のこの言葉をよく引用するが、同じものを指すだろう。

「自己を完成し、その力の許す限り偉大な人となることが、およそ人間の一番の幸福であると同時に、それがまた、人間の第一の義務である」

答えはいつだって自分の中にある。ラマナマハルシが言ってたけど、答えの方が引き寄せているらしいよ。自分の完成に向かって走り続けたくなるだろう。細胞が頼んでもないのに仕事をするだろう。あれは、どうやら答えの方がFukiさんを引き寄せているらしい。

行動すべきか、このままでいいのか、何がしたいのか。そうはいっても何もしないでいられないだろう。こんな考えを持つことすら贅沢だと思えるだろう。隣の国じゃ生殺与奪の権利を握られて、ヒヨコのオスは今日もシュレッダーに挟まれて赤一面になっている。

でも、胸の内側の光だけ見ていればいいよ。小生はそうやって生きている。宗教臭いだろう、そう、これが宗教だ。それが一点だ。

別に今すぐできなくたっていい。小生だってできていない。胸の内側でいちばん熱いものを感じて、確かにしていって、本当の自分に出会える日がくるはずだ。その姿をいつか見せてくれればいい。Fukiさんはできるよ。

わたしたちは得てして、自分で「答え」を持っている。

本当に他人の言葉で変われることなんてあるだろうか? 古代ギリシャの名著、ゲーテの本も、セネカの本も、エマーソンも、自分の奥底にある言葉を、忘れかけていた言葉を、もう一度拾い上げてくれる。もう一度、自分自身に出会えることに価値があるのではないだろうか。そして彼らも言う。自分の声を信じろと。どの本も、それしかいっていない。

だから小生は彼女にいいたい。自分のいちばん胸の奥にあるものを信じればいいと。

彼女の葛藤は、小生の葛藤は、答えを持っているのに葛藤してしまう葛藤にある。

答えは確かにある。確かにあるのに、その答えの周りに霧がかかったように、雑念が浮かぶ。曇っていく。だから彼女は占いにいった。占いでは、「無心になれ」といわれた。

みんな無心になれという。もう答えはあるのだから、答えだけで行動できるようにということだろうか。

もう十分に考え、答えにちゃんと行き着いたのだから、もう悩むことは何もない。ただ、たまに、通り雲が太陽を隠すように、自分の核が見えにくくなるだけだ。雲は自然に過ぎていくから、慌てることはない。

相対性理論の本を読んだり、物理的な方面からも真実を探究する姿は本当に素晴らしいと思う。小生は理数系の脳が極端に悪いバカなので、ほとんどその手の本は読んだことはない。肥田先生の数学的考察や、ゲーテの色彩論も、読み飛ばしている。

それらの本を読んで、どんどんFukiさんの答えは強固になっていくだろう。しかし、何より大事にするものは、Fukiさんの中にあるその胸の熱いものなのだ。

Fukiさんの中にあるいちばん熱いもの、大事なもの、本体、核、一点。それを大事に抱えて、あとの邪魔しているものを追い払ってしまえばいい。邪魔しているものまで抱えなくてもいいよ。

Fukiさんに欠けているものは何もない。ちんこのように元々必要がないからついてないだけだ。

人を悩める子羊のように言ってしまって申し訳なかった。Fukiさんも、実際のところは悩んでないだろう。ただ通り雲に横切られて、少しだけぼんやりとした不安で、目の前が霞がかってしまうだけだろう。

答えはわかっているけど、ブツブツ言いたくなることもあるだろう。ブツブツ言えばいい。小生も、いつもブツブツ言っているよ。

ただ、本然というものは、諸君も知られるとおり、世界を単純化するものであって、けっして混沌を創造するものではない。

ーサン・デグジュペリ『人間の土地』より

Fukiさんは十分努力してきたよ。あとは日々を楽しめばいい。Fukiさんはちゃんとやることをやっているよ。Fukiさんの仕事はこの世でもっとも尊いものの一つだ。描いて、疲れたら寝たらいい。日向ぼっこすればいい。

Fukiさんが探し求めなくても、空間の方からFukiさんに近づいてくる言葉があるはずだ。それはFukiさんに表現されたがっている言葉だ。それを表現させてやったらいい。Fukiさんが描く一線一線が、煩悩を解きはらってくれるだろう。それが表現者にとっての瞑想だ。

私がすすめたいのは、けっして無理をしないことだ。生産的でない日や時間にはいつでも、むしろ雑談をするなり、居眠りでもしていたほうがいいよ。そんなときにものを書いたって、後で、いやな思いをするだけだからね。ゲーテ

生産的にする力は、休息や睡眠の中にある。また、逆に、運動の中にもある。ゲーテ

人はやるだけのことはやるべきである。けれどもどうしてももうできないときは、おちついてわらっていなければならん。落ちつき給え。宮沢賢治

葛藤か。

人を迷える子羊のように揶揄して申し訳なかった。人の文章を切ったり貼り付けたりして、ある種の印象操作も行った。本当に一生懸命悩んでいる人をからかうつもりはまったくない。Fukiさんと同じように、なんとなく、明るい感じに持っていきたかっただけだ。

実際のところ、小生はFukiさんを葛藤の人だとは思っていない。葛藤の中心に立っている人ではない。葛藤を眺めている。眺めていなきゃ、Fukiさんがこれまでやってきた仕事は為されなかった。

Fukiさんは葛藤で終わる人ではないよ。葛藤を作品に昇華できているのだから。活かす術も心得ている。

小生は26歳の頃はとてもじゃないけど、これほどのものは書けなかった。小生と同じ35歳になる頃には、天地の意思をさらに自由に表現できるようになるだろう。表現は、物を見る角度と、それをピシリピシリと当てはめていく力が必要になるけど、どんどん上手くなっていってるのは確かだよ。

新たな詩人よ。雲から光から嵐から、透明なエネルギーを得て、人と地球によるべき形を暗示せよ。宮沢賢治

小生も、夜はもう何もしてない。二時間ぐらい、何もしないでボーッとしている時がある。そうしていると、ワクワクして何かしてやりたくなってくる。

自分が決めたこと、自分の好きなことのはずなのに、どうして立ち止まってしまうんだろうと思うこともあるかもしれない。小生だってそうだよ。

小生だっていったん家に帰ると、めんどくさくて何もしたくなくなる。メンタリストDAIGOの本だったり何でもいいけど、習慣化したり、ワクワクすることを自分に合ったやり方で探してみたり、いろいろ工夫している。朝の4時にドトールに行って紙とペンで書いていると、不思議とやる気が湧いてくる。好きなことなのに、工夫がないと続けられないっていうのは、なんともやるせない気もしてくるが、まぁ、そんなもんだろう。村上春樹もチャンドラーもゲーテもそういっていたから、そういうもんだろう。

まぁ、胸の中でフワッときたものを書き留めておいて、決めた時間に清書するっていうのが、小生は今のところ良さそうだ。そのフワッときたものを、もう少し詳細に書いてみようと思ったら、案外できてしまう。

彼は、修行の一環として文章を書いていると言っている。「自分の心を見つめる修行」だと。

そうだね。小生も、自分の心を見つめてばかりいる。だが見つめたところで出会えるものではないから難しいものだ。たまにフワっと出てくるから、それを逃さないようにしているだけだ。Fukiさんも経験あるだろうが、小生は突如どこからやってくるかわからない何かと出会うために文章を書いているよ。それに比べると、小生の心なんて下の下もいいところだ。

別に書きたいものなんてない。本当に何もないよ。ただ畳の上に寝っ転がって、散歩して、たまに突如フワって湧いてきたりする、そういうものをメモしておいて、あとで書き上げるだけだ。そのまま思いついた勢いで書き上げてしまうこともある。まぁそのメモを深掘りしているだけだ。書きたいもの探していると書けなくなってしまうから、向こうからやってきてくれたものを形にしているだけだ。これに出会うと、たまらなく嬉しくなる。本当に感謝しかない。

小生も、書きたいこともやりたいこともよくわかっちゃいないよ。行き詰まることもしょっちゅうだ。ただ、ありったけのパワーを込めてぶちかましてやろうと思っているだけだ。結局のところ、それしかないと思っているからね。

表現の方からやってきたもの。フワッと浮かんだもの、それは生命を持ち、小生の手によって肉体を与えられたがっている。小生にできることは、ひらめきを形にしてあげることだ。

まぁ、だからか、下品でエッチなことばかり浮かんでしまうから、そればかり書いているよ(笑)あれには何のメッセージもないんだ。ただ浮かんだから書いているだけなんだ(笑)でも、案外、そういうものの方が人の胸を打ったりするだろう。

ただ思いついたものをそのまま書いているだけだ。考えると書けなくなるし、書いてても楽しくないからね。一次的に迫ってきたものを、そのまま書き出す。なぜそうするかというと、それがいちばんワクワクするからだ。

作家は、自分の人生のそれぞれの年代に記念碑を遺そうとするならば、生れつきの素質と善意を手放さないこと、どの年代でも純粋に見、感じること、そして二次的な目的をもたず、考えた通りまっすぐ忠実に表現すること、それがとくに大切だ。ゲーテ

あらゆる最高級の生産力、あらゆる偉大な創意、あらゆる発明、実を結び成果を上げるあらゆる偉大な思想は、だれかの思うままになるものではない。それは一切の現世の力を超越しているよ。人間はこうしたものを、天からの思いがけない賜物、純粋な神の子と見なして、ありがたく感謝の心で受け取り、尊敬しなければならないね。それは、人間を思うままに圧倒的な力で引きまわすデモーニッシュなもの、人間が自発的に行動していると信じながら、じつは知らず知らずのうちにそれに身を献げているデモーニッシュなもの、に似ているのだ。こういうばあい、人間は、世界を統治あそばす神の道具、神の感化を受け入れるにふさわしい容器と見なされるべきだ。ゲーテ

Fukiさんにも、Fukiさんに形にしてもらいたくて、やってくるものがあるはずだ。難しいことじゃないよ。

Fukiさんの漫画の、

この洗面台のシーンなんて、それを感じたけどな。Fukiさんの生活の中でふと感じたものだろう。そういうのを大事にすればいいと思う。たくさんメモしておいて後で合体させてやればいい。

しかしまぁ書いてみないことには言葉も出てこないからね。今だって、こうやって文章を眺めているとポツポツと出てくるんだから、書いてみないことにはどうしようもないね。けっきょく当たり前のことしかいってないが。

色々口うるさいことを言って悪かったね。男というものは、年下の可愛い女の子に慕われると、何でも言いたくなってしまうものだ。

ゲーテの言葉を多く引用した理由は、若い我々が変な方向に血走らないように、物書きの最高の大元帥に助言してもらう必要があったからだ。切り株に座って、長老の言葉に耳を傾けていた古き良き時代は、Fukiさんも好きだろう。

まぁ、小生はあくまでそうやっているという話だ。Capcutのように、何か使えそうなものがあれば持っていってくれ、ということだ。Fukiさんがワクワクして描けることがいちばんだ。

小生はアドバイスが嫌いだ。ふだんはこんなことは言わない。各自が好きにやればいいと思っている。ただ、小生の言葉に助けられたなんて言ってたような気がするから、少しだけ(?)語りたくなっただけだ。なんでも好きにやったらいい。

まぁ、剣道でもやるか!

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