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Fukiさんへのファンレター 1通目

投稿日:2021-05-27 更新日:

序文

 

小生は彼女に元気でいてほしいのである。もし彼女が迷ったり立ち止まったりして自分を探したくなったら、これを一つの材料としたり、元気が出るために戻ってこれるようなものを書き残したいと思った。

というのも小生が、彼女からファンレターを貰って元気になり、貰ってまだ一週間も経たないが、ちょっと不安になったり、元気がなくなったりするとき、これを読み返していると、元気が湧いてくるからである。何でも書けそうな気になってくる。小生も彼女にそういったものを書き残すことができたらと考えるのである。

右のスクロールバーが烏のフンみたいになっているだろう。これがあと2通続くんだ。これからずいぶん長い、長い、嘘のように長い文章が続くが、人は自分のことを6万2600字も書かれたら、何か悪口を書かれてるんじゃないかと思って、ビクビクしながらスクロールしなければならなくなるかもしれないが、その心配はない。いつも女性の悪口ばかり書いている小生が6万2600字も書いているのだから、不安になるのも無理のないことだが、そんなものを読むほどくだらない時間があるだろうか? 

ここで始めに言っておくが、そんな言葉は出てこない(はずだ)。少しばかり心の中を土足で踏み入るような、紳士にあるまじき行為もあったような気がするが、彼女の偉大な魂と向き合うためにはやむを得なかった。

文章とは、物事を明らかにするためではなくて、人を楽しませるためにあるのだから、ただ楽しんでくれればいい。楽しんで、寝て、また明日、太陽の日の出と共に、再び初めてこの地球に誕生したような気持ちで目覚めてくれればいい。

ファンレターとはそういうものだ。

 

 

1 Fukiさんと自然

 

彼女とは、互いのブログでコメントを寄稿している仲だが、もう1年ぐらいの付き合いになる。

出会いのきっかけは、小生が彼女の漫画を読んで感動したからだ。剥き出しの生の生命力を感じた。紙面の奥に神の息吹を感じた。それは読んでもらえればすぐにわかることだ。

彼女は変わっていると言えば変わっているが、普通と言えば普通の女の子だ。

しかし、皆が言う普通とは違う。正真正銘の普通なのである。

人は人間として生まれ、人間ではなくなっていってしまうが、彼女はずっと人間のままでいる。

彼女の顔を見てみよう。これはまだ彼女が地球に誕生したばかりの頃の顔だ。大人より賢そうな顔をしているだろう。事実、大人より賢い。黙ってこうして膝を抱えて座られているだけで、白旗を揚げたくなるだろう。

いつだってこのぐらいの歳の子供は、大人より賢そうな顔をしているものだが、彼女は26歳になる今日も、同じ顔をしている。この顔のまま、26年間生きてきた。

知識や理論どうこうではない。直接地球を読破している顔をしている。霊能力者よりよっぽど霊能力者の顔だ。

秀才は古今東西の書物を読破した人物。天才は自然という書物をそのまま読破した人物である。

男たちは、この顔が好きでもあるし、苦手でもある。男たちはこの目で見られると、死と似たものを感じる。自分が積み上げてきたものの死。聖域が歩いているようなものだ。ATフィールドが歩いているようなもの。すべての使徒を殲滅させるだろう。覇王色の覇気。どんな優れた弁論家でも、アリストテレスだろうがデモステネスでも、観席に彼女がいたら、演台を後にするだろう。

言葉でもない、行動でもない、その奥にあるものを見ている。ひながだれも教えていないのに餌を食べ水を飲むように、彼女は、有機交流電燈のひとつの青い証明を見ている。

何もない。この目を見ていると、大事なことは、積み上げるのではなく、積み減らすことだと感じる。事実、我々もこんな目をしていた。

この目を見ていると、山岡鉄舟と、鉄舟の師との会話を思い出す。

「 お前の言う事は正しい。しかし自分らの考え方に従って遠慮のないところを批評するとなれば、現在のお前は眼鏡を通してものを見ているようなものだ。確かにレンズは透き通っているから、さほど視力を弱める事はないとは言える。しかしもともと肉眼に何の欠点もない人は、どんなに良いレンズであろうとも、普通ものを見るときには使う必要がないばかりか、使うことが変則であり、使わないのが自然と言うものだ。現在のお前は、この事を問題とするところにまで進んできている。もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望み通りの極地に到達できるに違いない。ましてお前は剣と禅の二つの道とともに進境著しい人物である。一旦はっきりと道のあるところを悟ったならば、殺活自在神通遊化とも言うべき境地に至るのはわけのないことであろう」

子どもの頃、大人たちに「お地蔵さん」と呼ばれていた。とにかく笑わない子どもだったらしい。いつも何かを深刻に考えている子で、基本的にしゃべらない子どもだった(今でもわりに無口だけれど、幼少期は今以上に無口だった)。

わたしは幼い頃のかなりの期間、生きることは「絶望」だと思っていた。4歳のある瞬間に「わたしは地獄に落ちるんだ」という確信が芽生えて以降、小学3年生になるまでその考えは消えることはなく、「生きていたってなにも楽しくない、だって私は死んだら地獄に落ちるから。」とずっと思っていた。

私は「ごくフツーの子」でした。空気のように静かにひっそりと、ただ可愛く存在している女の子。しかし「私は地獄に落ちるのだ」「死ぬのって怖いな」ということが小学校時代の私の心の大半を占めていたから、どことなく暗かった。それ以外にはまあ、友だち付き合いとかにも普通に心を悩ましていたと思う。とにかくこの時期のもので笑っている写真が極端に少ない。暗い。暗かった。

幼少期は地獄の業火に焼かれて過ごしたらしいが、小生は次の文章の方が、彼女の幼少期を表しているのではないかと考えている。彼女が小学校一年の頃、担任の先生によって書かれた文章である。

大事な部分を抜粋するが、

班でカルタ取りをやった時、なかなか礼(←先生、札という字を間違えてるw)を取れない友達を思いやり、自分が先に見つけても、その子が取るまでじっと待っている、という姿が何度かありました。その子が取れた時、ほっとしたような何とも温かい表情をしたのが深く印象に残っています。何事にも誠実に取り組める力を大切に、二年生でも活躍して欲しいです。

ここでいちばん着目すべき点は、

二年生でも活躍して欲しいです。

ということだ。二年生ってまさか中学二年生のことじゃないだろう? 中学二年だったら、Fukiさんはコント師の養成中学校に通っていたことになる。

Fukiさんは、小学校一年のときに、こんなことをやってのけているのである。そりゃあ先生だってびっくりして漢字がカルタのように飛んでいってしまうわけである。「思考がその人」だとはいうけど、マザーテレサや水野南北がいうように、「行動」に人は表れると小生は思う。特に、とっさに出る行動に。

先生は、通信簿に書くことに困って、無理に頭をひねって絞り出したわけではないだろう。Fukiさんのことが、そういう人間にしか映らなかったのだと思う。

小生がここまで幼少期にこだわるのは、幼少期の行動に、核となる部分が眠っているように思うからだ。幼少期は皆、善だ。つまり人の本質は善である。その中でもFukiさんは、その傾向が強いように思う。

彼女はなぜか、中学の通知表もブログで晒している。しかし素晴らしい成績だ。他の教科は5と4なのに、家庭科だけ3だ。家事はあまり得意ではないのだろうか?

地球の声とは万物の徳であり、地球とのパイプが太い彼女にとって、日々その徳を積み続けさせようとする働きがある。

仁義礼智信の五乗というものは、人にとっては杖のようなものに過ぎず、人が人として立つことができるのは、ただ天地の徳によってである。この徳の根本を知る者には、自然と五条も備わっているものだ。水野南北

自分の一生の終わりを初めと結びつけることのできる人は最も幸福である。ゲーテ

小生は、ひろゆきやメンタリストDAIGOよりも、Fukiさんを尊敬している。

個人的なハナシ…私はずっと、「何かがおかしい」って感じて生きて来ました。それは一概に、人生を、なにかをこなすための時間のように感じていたんです。誰かにテストされているような気がして、自分の人生に点数がつくような気がしてました。

いい大学に入るとか、いい仕事に就くとか、でやっぱり大人になってもこなさなきゃいけないことは山ほどあって、生活費を稼がなきゃいけない、物を買わなきゃいけない。車を買わなきゃいけない、裕福な暮らし、あるいは少なくとも「中の上」くらいを目指さなきゃいけない。

私。この頃にあった私。こんなふうに人は誰しもこの世界について、そしてこの世に「存在し」「生きている」ことについて答えを見出そうとした幼い頃の経験があるのです。

しかし私たち大人は「日常」と「常識」を繰り返しすぎて、なかなかそこには戻れません。

思えば私たちは、今より遥かにピュアで、根源的で、真実に近い場所で思索をしていたのに…。

幼いとき。私は家のリビングに座っていて、ふと、「死んだとき、ここでこうしている自分がいたことを、どこか上から見下ろすのだろう」と思いました。そして自分がここにいることを「客観的」に俯瞰して見るのをイメージしてみました。

すると、こうしてリビングに座っている私を客観的に見ている私がいるのですが、でもそれを思い描く私もいま「生きてここにいる」私だから、そんな私がいることをまた客観的に見ている私がいて、でもそれもまた「生きている私」でしかなくて、またそれを見ている私がいて、それもまだ「私」だから、それを見ている私がいて、私がいて、私がいて……

 

 

地球といえば、彼女はよく自然について語る。彼女は大学の「森林科学科」を卒業して、ヨーロッパを6カ国周り、フィンランドに行って森を見ては、帰ってきて、自分で農作物を育て、じゃがいもを犬に食べられたり、切り干し大根を作ろうとして、雪が降ったまま放置して、こんな惨劇を起こしながらも、自給自足の道を開いている。

先日、切り干し大根を作り、白菜を干しました。

はりきりっ♫

翌朝↓

雪でびしょびしょになってた(いかにも私のやりそうなことだ)。

ものを考えるには空っぽになる必要があって、彼女がものを考えているというよりも、空っぽの彼女の心に、何でも入ってくるのだろう。

自分の奥深いところをじっと見つめたまま横たわっていると安心するだろう。そんな時間ばかり過ごしてきた。歩きながらもやっている。自分のいちばん根を下ろした、自分のいちばん深い部分、彼女はそこに安住するのが好きだ。その住人といっていい。そこに焦点を合わせて、そこで微睡んで、その安寧の中に入ることが、日常のどんなことよりも好きなんだろう。Fukiさんの言葉はいつもここから出ている。漫画もブログも動画も。

彼女の表の活動はそれほど忙しそうには見えないが、裏の活動は忙しそうだ、こんなに落ち着いているようで、忙しそうな女の子は見たことがない。世界の違和感一つ一つを熱心に取り上げて、掘り下げて、取り上げる気もないのに勝手に入ってくるから、それを処理する。それがずっと繰り返される。

空っぽの人間には、こういうことが起こる。彼女の中には色んなものが入ってくる。彼女が意図するしないを問わず、ただ進入してくる。地球と太いパイプで繋がっているために、彼女自身がコントロールできないエネルギーに振り回される。へその緒のように、人間を大地の腹につなぐその縄の存在を見るかのように。そしてそれは透明な真綿のようである。

小さな自己発電型の人間とは異なる。人は悟るために生きるのではなく、生きるために生きる。彼女は生きようとしているのだと思う。しかし、どう生きていいのかがわからない。みんな、ある程度はこの問題を考えるが、サボってしまう。彼女はずっとこの問題と戦っている。

彼女はよく迷ったり葛藤したりしているが、それが単純に彼女の内から発生しているものなのか、彼女の背景にある慣性が働いているのか、わからなくなるときがある。

作業が進まない、漫画が描けない、漫画を描いてる暇があったらボランティアでもした方がいいんじゃないか、何をしたいかわからない、と言い出し始める。

青空を見上げると、眉間のあたりが言いようもないほどその蒼穹に貫かれ、また鉄筋コンクリートの中にいると、その壁の冷たさに圧死しそうになる。

太陽に会えば、ああ、そうだ、これでいいんだ。太陽がそういっている。もう大丈夫。これでいい。これが答えなんだ、これが私の探していたもの……と感じても、太陽が去ると、また、私は何なんだろう、何をしているんだろう。今日は何をした、私は生きていると言えるのか、となる。

うん、焦る必要なんてない。焦らなくていいんだ。ゆっくり行こう、といったって、ゆっくりすることだけができない。太陽が、夜が、壁が、空間が、闇が、不安が、語りかけてくる声を、最後まで聞き届けようとする。

彼女は非常に客観的な人間だと思う。自分がふと感じたことをそのままで終わらせない。徹底的に最後の一点に行き着くまで考える。静かに、受け止める。受け止め続ける。主観的に、客観的に、やはり客観性の方が強いと思う。

彼女がふだん口数が少ないのは、注意深いからだろう。丁寧というより、注意深い。我々は確かに、天井から自分を見渡すようなシン……としたもの、実質的虚無を生活の間に感じる。静かにしていると、限りなく静かにしていると、確かにその虚無と自分が一体となる感覚を覚える。注意しているのだと思う。その時間と空間軸から外れないように、注意している。それが彼女の仕事といえる。

自分から思索に向かっているわけではない。入ってきてしまうのだ。そして、比喩ではなく、本当に違う次元に生きている。彼女はこちらの世界の方が真実だと信じている。愛している。

アインシュタインも、6歳になるまでは何も話さなかったという。言葉になる前のもの、すべてが生まれる一点。実質的な虚無。実質的な実質。それがアインシュタインにとっての言葉だった。

言葉を身につけるということは、言葉に支配されることでもある。人は皆、言葉で認識する。言葉で物を考える。言葉がすべてだ。言葉を話す頃には、言葉になる前のものから離れていく。

彼女は、家族よりも、友達よりも、本当の言葉と共に生きてきた。

ああ神さま、私の前に知的で、話が合って、友だち以上の絆でもって話せる、ステキな男性をもたらしてください。とここ数年祈っていた。

友だち以上の絆とは、この空間座標を同じ位置する人。巷のあべっく達が三軒茶屋でタピオカ白桃ミルクティーを飲むように、一緒にこの星の本当の姿を絞って飲み交わしたいと思っている。

一般女性が抱えている「こどく」と、少し性質が異なるものである。それゆえ、彼女は悩む。

彼女はこの前も動画で言っていた。やりたいことがわからなくなっちゃった。なんなんだろう。どうしたらいいんだろう。今の生活には満足している。幸せ、これ以上の幸せを望むことの方が罪なことだ。何かやろう。でも何をしたらいいかわからない。漫画を描こう。でも、いまいち気分がのらない。だるい。実質的虚無。

仕事は週に数日、塾講師のバイトをして、自分の畑を耕し、一日4時間散歩して、家族や友達と過ごしたり、太陽を浴びて日向ぼっこして、漫画を描いて、動画を撮って、部屋で悶々としたり、そしてそれらの活動のすべてが、まるで宇宙的慣性に則って行われているようだ。身体が、心が、勝手に動く。勝手に突き動かされる。言葉が勝手に入ってくる。うるさい。無心になりたい。

嫌なことは何一つない。肌に合わない衣はすべて脱ぎ捨てたが、今、果たしてどんな服を身につければいいのか。嫌なことがあるとすれば、この勝手に入ってくる思考か。でも、そんなに嫌でもないかもしれない。私はこの思考が好きだ。

漫画を描き続けようと思っているが、特にプロを目指しているわけでもない。自分のためにやっている。生活できるぐらいの収入が得られればいい。このままでいい。このままでいい。本当にこのままでいいのか。このままでいい。ただ太陽だけが肯定してくれる。

しかし贅沢だ。手も足もこんなに動く。何だってできる。ゴミだってたくさん拾える。漫画描くより、ボランティアでもしていた方がいいんじゃないのか? 時間。この時間は悪い時間なのか? この時間が好きなのか嫌いなのかもわからない。それでも太陽だけは、そのままでいいと言ってくれる。すべてを肯定してくれる。

鼻先を泥だらけにしたり、スカートのよれや土汚れを気にしないで遊び回って、クローバーの絨毯で膝を濡らして、疲れて月の光でコロコロ眠ったあの頃のように、世界の本当のひとつとなっていたい。それはそんなに悪いことなのか、それでいいんじゃないのか。それしかないんじゃないのか。

自分の心に注意深い人は少なくないが、空間や次元に注意深い人は稀だ。それは、人をイライラさせてしまうことも少なくないから、黙っていなければならない、という理由も後押しされる。それゆえ、彼女はこの透明の軌道を一人で歩いてきた。今も歩き続けている。

こんなにフワフワしていたら、実生活に支障がきたさないか? と思われるかもしれない。

じっさい、きたしている。

これは私が2年前に住み込みで旅館で働いていた時のこと。私はその日フロント業務のミスをして、控え室で支配人に怒られていました。

「クーポン処理のことだけど、ここの欄に記載あったらチェックインの時に確認せなならんの…前一度ゆうたな?…ぼくら会計のとき必ずお客さんのクーポン確認してるの知ってた?知らんかった?…ああ、全然見てないんやな。だめやな…」

はァ、すみません…。

とか怒られてる時に、すかさずじっと相手の指を見る。

すると、「ああこの人はすごく真っ当なこと言って、さも今ここではすべて自分が正しいと思ってるんだろうけど(正しいのだけどね笑)、結局、抗えないのだ、自分の指のカタチに。自分の指が5本であることに…!それは自分が決めたことではないのに、さも自分が始めから創って自分のものにしているかのようだ!」

みな、自己を完成させてるように見えて、自分の意思で生きてるように見えて、結局指が5本であることからすら逃れられないのだ!!!!

「5本5本ってそんな、、指が3本とか4本の人もいるじゃないですか!」という人がいるかもしれないけど、問題はその本数じゃないんだ。言いたいのは、私たちは何にも抗えないし、私たちの身体のどこにも私たち自身で作ったものはないということだ。

周りを見渡せば、こんなに人工物が溢れ設計に溢れ意図に溢れたこの街で、「身体」こそ一番近くにあって一番よく使うものなのに、この形を何一つ自分たちで決めてはいない。

人生は思いのまま。行動するがまま、社会は私たちで変えられる、We Can Change The Worldっ!!しかし私たちは手の指の数、足の指の数、何一つ決められないまま生まれて使って死ぬ。

このように、実生活にかなり支障がきたしている。

こりゃあ仕事ができないわけだ。足並み揃えて飲食店で働くのが上手くいかないのも無理はない。

フワフワしているが、彼女は歴とした高学歴だ。ほんとうに、よく勉強に集中できたなぁと思う。彼女は今塾講師として働いているが、おそらくそれもまた、生徒に問題文を解かせている間、彼女もまた夢想や森羅万象を解いている姿を想像するに難しくない。

小生はどんな悩みでも、いい作品が作れれば気が晴れる、つまらない駄作が続いたり、これじゃないという作品が3日も続くと悩むようになる。しかし一度ドカンと手応えのある会心の作を仕上げられたら、もう何も残らない。やりきった。これでいいと、心から満足し、死んだように眠ることができる。このために生きているんだと、心から思える。

彼女も表現の人だから、自分の全てを開放したがっているように見える。しかし解放の仕方が分からない。今日一日をちゃんと生き切ることを望んでいるように見える。

飲食店の仕事がうまくこなせないのも、切り干し大根を失敗してしまったのも、地球の声に聞き入っているからだろう。しかしそこには音も声もない。ただ空白を聴き続けている。根っからの詩人だ。彼女の鋳型に、世の中の瑣末は合致しないのだ。仕事も、男も。

ただ、はつらつとした活動によってのみ、不愉快なことは克服される。ゲーテ

心にくぐもるものは性格が悪いからじゃないんだよ。たまたま雲が通りがかっただけだ。自然の受信機として、アンテナの感度が高いんだ。モヤモヤしたり、自分の中にあるれっきとした悪と戦ってみたり、忙しいみたいだけど、いいじゃない。生き物として、人間として、正しい姿に見えるよ。

晴れてもよし、曇りもよし、富士の山

山岡鉄舟

今度剣道でもやろう! 無念無想の剣を教えてあげるよ。

 

 

2 Fukiさんと漫画

 

Fukiさんの漫画は、少女漫画よりも少女漫画らしい。

おそらく、どの少女漫画家、少女漫画の大家だとしても、ここまで少女漫画らしい少女漫画は描けないだろう。

小生は彼女の漫画を観察していると、どうしても、「さくらももこ」が浮かんできてしまう。「ちびまる子ちゃん」もそうだが、「もものかんづめ」に流れている精神がよく似ている。

この感性は、女の子が女の子を失わずに26歳にならなければ獲得できない。どの女性も、もう中学に上がる頃には失われていってしまう感性だ。まるちゃんとFukiさんの感性は、真の女性性と、ある一種の代償が入ったコップを頭上にのせ、少しもこぼれ落とさずに歩き通してきたところからきている。

彼女の漫画については、以前、記事に書いたので、詳しくはこちらを参照してほしい。

私がひたすら目指してきたのは、自分自身というものをさらに賢明に、さらに良くすること、自分自身の人格内容を高める、さらに自分が善だ、真実だと認めたものを表現することであった。ゲーテ

Fukiさんは、いい人間でありたいと思っているだろう。そこに見えない力が働いているのはわかる。徳や善を最上に置き、人に悪意をぶつけないようにして生きている。人の悪口を言わないと決めている。心に思うことすら罪悪感を感じている。小生もそうだ。Fukiさんは幼少からの筋金入りみたいだけどね。

他人どうこうよりも、悪口を言っている自分の方が嫌になり、人を罵ると運気が離れていくのを感じるだろう。他人のためというよりも、自分のためかもしれない。その性格がよく漫画に出ている。鴨頭嘉人さんもそうやって生きていることがわかるから、小生は鴨頭さんのことが好きなのである。武井壮も、ゲーテも、Fukiさんも。

忍耐と才能と勇気がある。

彼女の作品はほのぼのとふわふわしていることが多く、それが彼女のひとつの持ち味となっている。悪いキャラしか出てこない小生の作品と比べると正反対だ。

地球に無関心な人間とそうでない人間、自然や環境を破壊する人間とその対比が描かれることは多いから、そういう意味でいえば、人類全体が悪としてみなしているとも取れるが。

多くの場合、芸術家や表現者というものは、より良い作品を作りたいという旅の過程で、自身の精神性を高めることが何よりも重要だと思うようになり、そしてその最上の精神とはキリスト愛のようなものと考えるようになる。

岡本太郎が自著にこのタイトルにまでこの言葉を採用したのは、そうなってしまいそうになる自分への戒めだと小生は思っている。絶対にそうなってやるもんか、と。確かに岡本太郎は最上の精神を手に入れたけれども、それを捨てて、表現を選んだ。

岡本太郎は、芸術や表現に携わる者は、決して丸くなってはいけない。金平糖のように、いつまでも尖り続けなければならないと言ったが、小生はこの言葉に出会って以来、この態度を採用している。

ショーペンハウアーも、「怒りのない人間は、知力もない。知力はある種のとげとげしさ、鋭さをはらみ、そのため毎日、実生活、芸術や文学で無数の事柄にひそかな非難やあざけりをおぼえるが、それこそ愚かな模倣を阻止してくれるものだ」といっている。

ドストエフスキーの作品も、その多様性、相対性、スメルジャコフやフョードルなどの悪キャラを登場させることで、アリョーシャの高潔さを引き出すことに成功している。

変に力が入って、『おまんまんバスターズ!』なんて描き出されたら困ってしまうし、Fukiさんの好きにやってくれるのがいちばんいいのだが、小生は、神の前に恥じない作品を作ろうと、愛や平和や人類の進歩に貢献する作品を作っていかなければならないのかなと悩んだ時期に、この言葉に救われたから、Fukiさんにも届けたくなっただけだ。小生でなく、岡本太郎がそんなことを言っていたと、何か方向性で迷った時、ひとつの思案材料になってくれれば嬉しい。

 

と思っていたら、ずっと遥か先にいた。

『神秘的慣性』

彼女とは何者か知りたければ、この漫画を読むのがいちばん早い。

まさに彼女というものを表している。客観性、自分を貫く何か、空白の、いちばん空白の、いちばん白い世界から自分を見た姿を描いている。客観的だ。いつも自分を最大限に客観して見ている。あまりに客観的すぎて、自身を突き動かしているのは宇宙的慣性だという。短編では彼女の最高傑作だと思う。素晴らしい。

この漫画の通り、彼女はいつもこの慣性の存在を嗅ぎ取っている。彼女の作品の多くは、この、白く、透明な世界を描いたものである。

「この道を一緒に歩いたってさぁ 私たちの脳裏に浮かぶのはあれでしょ ケッコンニンシンシンチクコソダテ それを知ってて恋とかしようとするからしらじらしい」

完璧な一文。少し小生のこの記事と似ている。この記事からインスピレーションを受けて、さらに女性視点から強化してくれたのではないかと密かに思っている。

いつもだるいのは、魂が本体で、身体に入って生きているせいだという。それを船酔いと例えている。

ここまでくると、毒がどうとかではない気がする。いや、毒はある。気持ちのいい毒だ。

小生の予想だが、彼女は一度セリフをすべて書き出した後で、絵を加えているような気がする。スローガンや心の声に絵を付け足していると言ったら言葉が悪いかもしれないが(少女漫画は少年漫画に比べてそれが顕著である。鳥山明や井上雄彦なんかは絶対に絵から先に描いていると思う)、彼女は人がなんと言おうが編集がなんと言おうが、結局いつも自分を描かずにいられないのだと思う。

以下、編集さんの言葉

私たちみんなが物語の主人公になれるわけではなく、ほぼ100%の確率でモブとして生きることになるのですが、そうした「生」の意味について積極的に肯定してくれる作風が持ち味であると感じています。

商業誌での企画につながっていくかどうかは、おそらく次の段階にあります。特筆すべき生き方をしていないのに、目が離せなくなる。この矛盾した要請を満たせるキャラクターを作れれば、この段階に到達したことになるでしょう。

作者の読者に対する愛が伝わってくるようなキャラクターの登場を、楽しみにお待ちしています!

今作、すごくよかったです!

家庭内を生き抜くための処世術として存在論的虚無に陥ってしまった主人公が救済される話、とでもいえばいいのでしょうか。おそらく類似したテーマのものはあるでしょうが、キャラクターを丁寧に考え抜いて作っておられるため、独自性の高い読み物になっていると感じました。

キャラクター作りはできつつあると思うもので、次はドラマ作りに挑んだものを見てみたいです。

たとえば本作のアオちゃんが物理的思考法では切り抜けられない大ピンチに陥ったとしたら、それはどんなもので、どう乗り越えるのか……。Fukiさんなら偶然性に逃げないで、読者にも困難に立ち向かう勇気を与えるドラマを紡げるのではないかと思いました。

しかし面白いことに、小生の見たところ、彼女はあまり編集さんの言っていることに従おうとしているようには見えない。言われた通りやろうとしているのかもしれないが、どうも勝手に、ペンが動いてしまうようなのである。

新たな詩人よ。雲から光から嵐から、透明なエネルギーを得て、人と地球によるべき形を暗示せよ。宮沢賢治

漫画もブログも動画も、すべて一貫している。彼女は宇宙の神秘的慣性の影響を受けやすく、それを形にせざるを得ない。いつも彼女の背後に大いなる突き動かされるものがあって、その波動を感じている。それを形にせずにはいられないように思う。誰に何を言われようと、ずっとこれを描いている。

といっても、彼女は人間を描こうとしているし、ドラマも描こうとしている。

夢や目的が見つからなくて、だからこそみんな悩んでるんだと思うけど。目的がないけど生きていく、その姿が新しい時代の賛歌になるとも思うんだけれど。虚無に立ち向かった人にどう目的を持たせたらいいかなんて分からないよ。

虚無に立ち向かった人にどう目的を持たせたらいいかなんて分からないよ。

確かにね。

ん? 

虚無に立ち向かった人にどう目的を持たせたらいいかなんて分からないよ。

虚無に立ち向かった人にどう目的を持たせたらいいか分からない……?

虚無に立ち向かった人? 目的?

……。

不思議な言葉だ。

思わずこの言葉を前に止まってしまった。

正直、ここまで大地や風の干渉を受けて、それを作品にしているという人を見たことがない。編集にこうした方がいいとアドバイスされても、それを続けているのである。しかしそれは彼女がそうしたい、そうしようと思っている以上のものが働いているように思う。

少女漫画家の感性として、いや、女性として、これ以上ないものを感じる。これが、真の意味での女性か、と思ってしまう。

小生は女性を研究してきた。モテたいというのもあるが、純粋に興味があった。どこでどの女性に出会っても、手持ちの望遠鏡で観察してきた。交際には恵まれず、目と手が届く距離での観察こそ叶わなかったが、彼女の漫画の中にそれを見た。

それゆえ珍しく、小生の方から「もしもしお嬢さん」と言って、この広いネットの海で声をかけたのが、出会いのきっかけだったのである。

ゲーテは弟子のエッカーマンにこんなことを言っている。

完全なものだけを見ることによって、趣味というものができるんだ。なぜなら趣味は平凡なものを見ないで、最も秀れたものを見ることからのみ養って行けるからだよ。だから、私は君にただ最良のものだけを見せる。そして君がそういうものに土台を置いたら、他の物に対する尺度も持つようになり、適正に評価ができるようになるだろう。ゲーテ

手塚治虫も同じことを言っていた。

君たち、漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。

一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。

そして、それから自分の世界を作れ。

小生は彼女の漫画を一目見て、超一流の女性だと思った。彼女を見ていれば、女性というものがわかる気がした。そして、自分の世界を作れる気がした。

しかしまあそれは置いといて、とにかく私はもっとドラマを描ける漫画家になりたいのです!(目的。)

彼女は人を描きたいと思っているし、ドラマも描きたいと思っている。嬉しいことに、しまるこブログからそれをいちばんに学んでいると言ってくれている。

人間ドラマを描きたいのなら、マッチングアプリの体験談を描くのもいいかもね。

【マッチングアプリ体験談①】2回目のデートを渋ったら怒られちゃった話。

これは人間ドラマがあったよ。

Fukiさんの漫画のいちばん好きなシーン

「突き当たった壁はまたも同じもので」

彼女は、最後の壁にぶち当たるまで思索をすることができる人だから、最後の一点に迫ることができる。彼女の作品から出てくる台詞は、すべてそこから生まれている。

先ほどは、自然とのパイプがどうだとか、磁場の干渉を受けやすいなどとは言ったが、本当のところでは、彼女は意志の人である。最後の最後に迫ることができて、最後を越えていける女性である。同時に、最後の方でも彼女を追いかけているから、彼女は何でも早く気づいてしまえるんだろう。

いつも彼女の悩みは一貫している。いつも同じ壁で苦しむ。それは逆にいえば、他の壁はもろともしないということだ。みんな、その前の壁を越えられずにいる。金、恋、物質、贅沢、いろいろね。

どうしても、うまくいかない日があるかもしれない。ペンがいうことを聞いてくれないこともあるかもしれない。一日中、部屋でボーッとして過ごしてしまうかもしれない。自分を責めてしまうかもしれない。

小生も、しょっちゅう同じ壁で行き詰まる。だが、壁の方は逃げていかない。Fukiさんに飛び越えてほしくやってきているんだ。後ろを向きながら走っていると、跳躍力が削がれてしまうよ。壁は、 Fukiさんのことが大好きだからやってくるんだ。Fukiさんが幸せになれるようにね。

この世界は幻で、夢のようなもの。巨大なディズニーランドみたいなものなんだから、楽しまなければ嘘になる。

コミックエッセイ大賞に落ちた。しょぼーん。

noteで開催されていたコミックエッセイのコンテストに落ちた。自信があったわけでないけれど、まあ、大方、6〜7割の確率で何かの賞には入賞するんじゃないかな、と思っていた(それが自信あったって言うんだよ笑)。

就活を辞めた大学生が人生を模索し旅に出る体験談。一昨年から書き始めて、9話書き終えた。旅が終わりに差し掛かったあたりでこのコンテストが開催され、まさに私のためのコンテストだと思った。

グランプリは書籍化と、ドラマ化。

グランプリは難しいとしても、少なくともこんなに「いいね」してくれた人がいるんだし、荒削りかもしれないけどストーリーの筋書きは出来上がっているんだし、書籍化を検討してくれる人がいてもいいんじゃないか、と思った。どっちかというと、時代に合った題材だとは思うし…。

驚いたのは、入賞に「かすりもしなかった」ことである。

受賞作品を見てみる。(著者名略)

【幻冬舎賞】40歳になって考える父親が40歳だった時のこと

【テレビ東京賞】

いい加減婚活しなきゃと思ったアラサーオタクの漫画

【cakes賞】

ワクワクはどっち?

【特別賞】

ハトコの育児川柳

本気で目指した堂本剛の嫁

カナダの引越しが日本と全然違った話

ゴミ食う日々

35歳とか関係ない。人は傷つけられたら傷つくねん。

受賞作を読むと、どの作品も上手いし読みやすいけれど、、でもエッセイ漫画に求められているものとは、絵の上手さとかストーリー展開の面白さとかじゃない。それが「リアルさ」と「共感」、だとしたら、私の作品がこれらの賞にかすりもしなかったのはなぜだろう?本当になぞ。タイトルに年齢入れればよかったのか?「24歳、就職路線を外れた女子の末路っ!」って?ばかみたい。

でも真剣な話、私の漫画には何かが足りなかったんだろうな。

私の中には「恐怖」がある。そのひとつに、やっぱり「評価されることの恐怖」がある。

伝え方を誤って、人が離れていくのは怖い。しかし、「これを受け取ったら相手はどう思うだろう」という忖度をするのはとても疲れる。「伝える」ことに他人の「評価」はいるのか?私は、インスタグラムでよく、自分の「想い」や「伝えたいこと」を表現すると、フォロワーがあからさまに減る場面がある。(多くは、環境問題や動物愛護についての投稿)

ああ、「思想」は邪魔なものなのか、とか思う。

だれも、誰かの「強い想い」なんて見たくないのかもしれない。。と思ってすごく落ち込む。

落ち込む。というかむかつく。最近、その「怒り」の持って行き場が分からない。夜中、衝動的に怒りを文字にし、ツイッターに投稿するも、いいねの数が少なく、下手すりゃフォロワーが途端に減ってたりして、そしてまた落ち込んで、投稿を削除したりする。

環境問題はじめ、動物愛護の活動をしている人が誰もが行き当たる問題、「伝え方」の話。あまりにも悲観的だったり、批判的だったりすると人は受け入れられない、むしろ反発してしまう。何かを主張したり誰かに変革を求める活動家に対して、攻撃的なコメントを投げる人が多いのはそのせいだと思う。だから「伝え方」には気を付けましょうね、って話はよく聞く。

すごく分かる。

けどね…

知らねーよ!!!!!!

と今は叫びたい。

だれかの主張を見ただけで傷付くなよ、反発するなよ、と、正直なところ思う。傷付くのは、その人に主張も主義も思想もないからでしょ。

「押しつけはしたくないよね」

なんて、よくそんな綺麗事が言えるよな、私。虫唾が走る。そもそもそんな大きな器でもないし。

で、私は、フォロワーが減ったり、コンテストに落ちたり、そんなことで落ち込んでるんじゃねーよ!!!!!

何を気にしているんだ。

何を守りたいんだ。

天秤の向こう側にあるものは、なんだ!!!

でもやっぱり、表現することって、怖い。

冷静になって考えると、今回、一年半かけて描いてきたエッセイ漫画が微塵も評価されなかったのは、やっぱり悲しいことだったと思う。それで今日は意味もなく寒空の下、5kmも歩いちゃった。暴言吐きたくもなるよね。

どこもかしこも看板看板。ウゼェー

造花ウゼェーー!!

圧倒的にFukiさんの漫画がいちばん面白かったよ。圧倒的にね。東村アキコの「かくかくしかじか」より良かった。あれでいい。あれ以上の漫画はありはしない。大丈夫だから、そのまま描き続けなよ。

 

 

3 Fukiさんと動画

 

Fukiさんは動画の冒頭で必ず、「皆さん、今日はどんな一日をお過ごしになられましたか?」と言う。小生は、

「ヘンリーさんのハースストーン動画を見てました!」

といつも大きな声で答えている。

Fukiさんは最近YouTubeを始めた。

深夜に、家族が寝静まった頃、車に乗り込んで一人でフリートークを始める。そこには台本もなければ編集もない。日中、散歩して自転車に乗ったりして、そこでふと浮かんだことをあてもなく話し始めるだけだ。

何も思いつくことがなくて、そのまま黙り込んだり、あるいは当意即妙で得たものをフツフツと話す。無骨というか、男らしいというか。ガキの使いのフリートークに挑む松本人志のようだ。こんな事をしようとする女の子が他にどこにいるだろうか?

確かにニコ主だったりYouTuberだったり何でもいいが、無編集でただ何かをとりあえず喋ってみようと特攻する人の動画はあるけれども、彼女のは少し違う。純文学を動画でやっているようなものだ。

それが面白い。彼女は才能がある。度胸がいい。何も話すことを用意しないで収録に臨む。自分を過信しているわけではないだろうが、台本を用意して話すと、自分の魂がのらないのを感じるのだろう。

その時いちばん胸にあるものを選択していくすべに長けている。いつも自分の胸の中心にある言葉を見つめて過ごしているからだろう。これは26歳の女性が、さて車に乗り込んだといっても、みんながみんなできるものではないだろう。

もともと男より女性の方が言語能力が高い。何でも黙って察しろというのが男である。口で言ってくれないと分からないというのが女である。女性の方がクレバーで左脳的な考えをするのは、男というものに愛想を尽かしているからである。

女性の方が、物事を論理的に解釈し、それを解きたいという希求は強い。相対性理論の本をいつも片手に持っている彼女は、それはさらに顕著である。数字や理系的概念にも強く、地頭がいいことも手伝っている。

うん。とても可愛い! とてもチャーミングだ!

顔も可愛いし声もいいし笑顔もいい。いい魅力もある。トークが上手いのは、ふだん自分と対話して、いちばんまっすぐな言葉を見つける習慣があるからだとは思われるが、この文章を見て納得した。よく気づけるなぁと思った。才能とはよく気づけることをいう。

私は話すテーマを決めて3〜4回撮って、その中からいちばん良いものを選んでアップロードするのですが、多くの場合「2回目」に撮ったものが1番良いように感じます。一度、実験的に「2回目」撮ったものと「4回目」撮ったもの両方を上げて、比べて見ていただきたいものですが…たぶん分かると思います。4回目だと顔が疲れています。そしてなにか、喋っていることとは別のところで意図が働いているのが感じられるはずです。

話す内容をあらかじめ決めて話すと、どうしても自然でないものが生まれてしまいます。「本当の気持ち」と離れた所でふわふわしている感じが受け取れてしまいます。「ここでこれを言おう」「ここでこの顔をしよう」という意図が感じられてしまって気持ち悪い。なので自分の意図が生まれない段階のものがかえって本当に「感じている」ことに近かったりして、これは不思議なものです。

そのとき言葉の表現が拙かったり、話の辻褄が合わなかったり、「うーん」とか「えーっと…」とかいう無駄な台詞がどうしても増えてしまいます。しかしそれはたいした問題ではありません。要はそこに「気持ちが乗っている」方が大切なので、即興というか、何も意図しないままぽつりぽつりと喋っているのが結局は一番良いように感じます。

瞬間、瞬間的に、いちばん生命力があるものを選択しなければ気持ちが悪いのだろう。

本当はこの世界の美しさや太陽の素晴らしさ、気持ちのいいものだけを切り抜いて、それを視聴者に届けられるたら一番いいとは思っているだろうが、彼女は、そのとき心にあるものを選択する。後で消すことになっても。

急に、私は生理ですとか言い出す。この前も、ここは寒い県だから窓を開ければ涼しくなるのに、職場の同僚がクーラーをつけて室内温度を21°にした! と、ブツブツ文句を言っていた。おまけに同僚は服を着込んでいたらしく、まずは服を脱げや! と、深夜の車の中でブツブツ言っていた。小生と同じで、当人に読まれる可能性がなさそうな場合は、こうやって結構毒を吐いている。

これは、気のせいだとは思いたいが、彼女はしまるこブログを講読するようになってから、だんだんと毒を吐くようになっていっている気がする。彼女は「しまるこさんのブログから、自分を晒け出すこと、人間ドラマを学んでいます!」と言っている。

彼女のブログを見ていると、しまるこブログを講読する前後で、カラーが変わってきている気がする。最新になるにつれてそれは悪化しており、生理がどうとか見せブラがどうとか私は彼氏がいませんとかヤリマンがどうとか、自分を晒そうとしているのか、寝巻き姿で頬杖をついて話しているときもある。そのうちどこかのYouTuberのように、渋谷の交差点にベッドを置いて、炎上しなければいいが。

しまるこさんは、ドトールのパートのおばさんが部下に偉そうに指図しているのを見て、彼女がそうできているのは何でだろう?と考えた。彼はそれが、おばさんが「服を着ているからだ」と気付いた。全裸になったら同じ態度をできないはずなのに彼女はそれに気付いていない、とても変だな、と彼は思った。彼の目にはいつもそういうものが見えている。私が憧れるのは、彼のこういうレンズだ。

このブログを勧めた友だちの多くが「サイテー」、「めちゃくちゃ下品」、「すごく偏っている」、といった。みんなぜんぜん分かっていないなぁ!(笑)このブログの魅力はその「あけすけさ」にある。だれが自分の心をここまで表現できるだろう?

まぁ、気のせいか。

やはり、間だと思う。文章でいえば行間に神が宿るように、トークも間に神が宿る。多くのYoutuberはカットを多用し、間を殺してしまうが、彼女は間を活かす。小生は彼女の間が好きなのである。

車内灯が切れると、無言でドアを開け閉めをしているところもいい。

小生だったら、

「テメェいい加減にしろオラァ! 人が話してるのになんなんだよテメェは! テメェ何回目だよ! 毎回だよなぁ!? 毎回、毎回! ご主人様が話してんのにてめぇ、何回目だよ! 時速180キロでコンビニに突っ込んでやろうか!」

と、車と喧嘩を始めるギャグをやるところだが、まぁ、いい。

文章にいちばん必要なのは間違いなくパワーであり、トークもそうだろう。小生は鴨頭さんのトークが、YouTubeでいちばん上手く、いちばんパワーを感じるが、Fukiさんのあのおとなしくブツブツ話している中にも、パワーを感じる。

ファンのつき方が特殊で、よく固定ファンがついている。このブログからも何人もファンが生まれている。彼女には何か人を引き付けるものがあるし、応援したくなってしまうところがある。これから多くの人が彼女のファンになっていくだろう。

女の子が力を入れようが、力を抜こうが、一生懸命やろうが、なんでもいいところがあるが、おっさんが気合いを入れてカメラの前で何かをしようとすると、世間は許さないものである。だから小生は玄米をペチャクチャしながらやっている。

これは自分では気づかないだろうし、小生が言わないと一生気づかないと思うから言うが、Fukiさんは、左斜め下を向いて、少しニヤついたような、放心したようにどこを見ているかわからないとき、宮沢賢治と似た顔を見せる。

確かこの前、月夜見先生に似てるって言ったけど、それも本当だ。生駒里奈にも少し似てると思った。確かに全体の、ある一点に限ったときは、宮沢賢治とそっくりになる。造形の話じゃないよ。精神の話だ。

賢治は、「春になって蛙は冬眠から覚め、蛙のいる穴にステッキを突き刺せば、穴から冷たい水晶いろの空気がでる」という詩を知人から見せられ、

「それは性欲ですよ、実にいい。はっきり表徴された、性欲ですな」と言っていたそうです。

ー『集中講義 宮沢賢治〜ほんとうの幸いを生きる〜』(NHK出版)より

Fukiさんの「性欲」に関する考察を見ると、なぜ宮沢賢治と似ているか見えてくる。これは本当に名文だと思う。

性欲とは何?たとえばとっても幼い子どもに触れたとき、また、小さい動物を見たときに、その溢れる「命」の新鮮さに、ああ、かわいいな、美しいな、尊いな、と思うことがあると思いますが、これもある意味、性欲なんじゃないでしょうか?そしたら色んな性的嗜好も説明がつくところがあるのではないかと。

「あ、いいね。みんな生きてるんだね。生きているっていいね。」って、それが性欲なのでは?なんだかお花畑みたい。

つまり性欲とは「命」に対する「萌え」なのだ、と私は個人的に解釈しています。

性欲が「命」つまり「生きること」に対する欲に限るかというと私はそうは思いません。

「生」と「死」は同じ衝動である、ということをいつもなんとなく感じています。

死は自己からの解脱だと。世界と一体になること。そしてオーガズムの瞬間には自己の輪郭がぼやけ、それは死の感覚に非常に近いと。

性欲とは「生まれ」「死ぬこと」の欲である。

そう思えば村上春樹が小説の中でしつこいほどに性的シーンを描くのも分かる。性的体験が「生」や「死」に対する執着、つまり「人間が生きるということ」と密接に関わっているから、描かざるを得ないのだ。エロ小説家だと言われようと、官能小説だと言われようと、そこを通ることでしか行けない、精神的な境地がある。

でも、その行為はともかくとして、性欲それ自体は決して醜いものだとは思えないところがあるんです。美しい絵画とか、美しい音楽、人間みな各々が命の衝動を感じる、一瞬ここではない境地に連れて行ってくれるあれらは、性欲でなかったら、なんなんだろう…。

彼女がふだん、心と格闘したり、心とおしゃべりしたり、人と会話したり、漫画やブログを通じて培われてきたセンサーが動画に活きている。自分の言葉に体重がのっているか、生命が宿っているか、というところに本当に注意深い。たとえ注意の果てに、平坦な言葉しかやってこなかったとしても、その言葉を追いかける姿勢は人を惹きつけてやまない。

 

 

4 Fukiさんと女性性

 

「女は愛の専門家で、愛において男は女に逆立ちしても敵わない」と三島由紀夫が言っていたが、Fukiさんを見ているとそれを感じる。

世界中の女性をかき集めて、合体させたような女性である。女性の最高種の血統を持った女性。女性性が純粋培養された試験管ベビー。そんな女性が、好きな女の子に石を投げるような子供がそのまま大きくなったような男に、こんなファンレターを送ってくるのだから驚きである。

しまるこブログに愛を捧ぐ

小生はいつもストーカーのように、彼女のブログ、漫画、YouTubeを3回転しながら、チェックして回っている。

まるでオンラインサロンだ。みんな西野亮廣じゃなくて、Fukiさんに月会費1000円(税込)払った方がいいと思う。

ジブリ監督宮崎駿の、企画につながる情報源は“友人の話”と“日常のスタッフとの何気ない会話”の2つだというから面白い。「企画は半径3メートル以内にいっぱい転がっている」が彼の口癖。

Jason Rodman|宮崎駿の企画につながる情報源は“半径3メートル以内”より

だいたいネットなんてものは、Fukiさんのブログ(更新しないけどw)と、あといくらか2つ3つ読んで、YouTubeでヘンリーさんのハースストーン動画見て、たまに友達と4時間くらい電話するだけ。それが8畳一間のアパートで生活する小生の半径3メートル。それで700記事書けてしまうんだから凄いだろう? まぁ、もう少し古典やゲーテを読み込もうとは思っているが。

最も女性らしい女性、最高純度の女性生は、少女漫画家の中にある。さくらももこ、東村アキコ、くらもちふさこ、彼女達の視点、愛には、逆立しても敵わない。女性の見せる感情、マリア象、生理、寂しさ、愛、そのどれもが最高純度でパッケージされている。

一般的に女性は勇気がないと思われているが、真の女性性の女性となると勇気はあるものである。

彼女は自分の顔や仕事や住んでいる土地や家の庭を何でも公開する。陶芸家が碗を割るように、作品は書いたり消したりしているが、プライベート的な部分は大味のようだ。個人情報を抱きしめて眠る一般女性とは一線を画す。そんなのものは、余計に世の中を暗くさせるだけだし、ふだん自分が戦っているものと比べたら、どうってことないからだろう。真の女性性の女性とは、男らしいものである。

バイトもその場で辞めてしまう。

顔だろうが住んでる場所だろうが、心の中だろうが、何でも晒す。

ええと、あまり人の日記を公開するのはどうかと思ったが、自分のブログで公開してるからいい……んだよね(^^;)?

2/10(水)

次。次に行きたい。場所じゃない。心。精神。行い。次のところに行きたい。この衝動はなんだろう。この違和感。ここじゃない、わけじゃない。でも、次に行きたい。それは「新しい」場所?うん、新しい、かもしれない。違う自分になりたい。「違う」?というか、「次」の自分。最近さらに誰かに「認められたい」、その想像を頻繁にするようになったのは何でだろう?だれかに「すごい」って言われたいのかな、なんか、とにかくものすごく“孤独”、なんだよな。精神的に…?安心感。だれかと分かち合うなにかがほしい。Aさん(友人)と会って、何か通じ合える片鱗が見えたのは、うれしかった、というかショックだったなぁ。こういう可能性が世界には満ちていることに。めんどくさいというか。やりきれないというか。ひとりじゃない、いつだって、ひとりではないんだけど、なにか孤独だ、ものすごく。身動きが取れないほどに。私じゃない、他の何かと溶け合いたい衝動。何か大きなものに身を委ねたい。外部。融合。混沌。“筒”でありたい、私は、ただエネルギーを介すだけの筒でありたい。仲介者。「私」じゃない、重きを置くものは。それは、宇宙、とか、真理とゆうやつ、なのかもしれない。歩きたい。歩いて歩いて歩いて歩いて、ぼーっとしてたい。時間を費やしたいのか、からっぽになりたいのか。なんでこんな、疲れてるんだろう。疲れてるというより、負けている。何か、重圧に。そんなものないのにね。重圧、それは、正しさ、とか、正解、とか?てゆーか何もしたくないなぁ。

望むもの、は何?何がしたいどうなりたい?ああとても、「自分」でありたい。そして同時に変動的でありたい。筒だもの。笑いたくもないし話したくもない。黙っていたい。でも言葉は美しい。「私」がなくなりそうだ。そこに、執着がなくなりそうで、それはなんか、さみしいことのような。でもその先に何が待ってるんだろう?誰がいるというのだろう?なんかとても神聖な花畑に行きたい。花畑じゃないや、川。死にたいわけではない。夜空。天国に近い場所は、そこかしらにある。天国にいる動物はそこかしらに飛んでいるのに、この世界の川はごみだらけだから嫌。それを混沌と呼ぶ。ここには天国も俗世も混じっているから、たまにみんな頭がおかしくなる。泣きたいなあ。泣くのは、どこまでも「自分」であることなのに、泣きたい。この世にいる限り、何かと対になってでしか救われないからバカバカしくなる。男女。友人。あるいは神さまと。ただひとりで完結することはできないのか。それだけで、救われて、完成することはできないのか。そのルートが知りたい。そのトンネルのありかを知りたい。一人でいたいわけじゃない、でも、外部は不変であることはないから、自分が自分だけで「完結」する方法を知りたい。それは芸術?ああだから人は絵を描いたり詩を書いたりするのかな?ただ、より普遍的なものと繋がっていたいだけ。てゆーか私はもしかして性と戦ってるのか?女でありたくないし男になりたくもある。

折り合いがつかない。誰かとしゃべっていたって、つまんないことしか言えないし。みんな戦っているのかな?そういうものと。でも誰かと何かを共有したい気持ちはある。でもその不完全さに、頭がしびれるよー。日本語にも種類がある。まあ大丈夫、なにかがわかちあえるというのなら。生の淵を意図的に歩くことはできるのか。神は横にいる。今も。ああ私はただ精神的でいたいだけなんだ。だけど行く場所がないんだってば。あるのかもしれないけど。変わりたい、次の場所へ行きたい、変化、変化、変化、変化。だれかが導いてくれるわけでもない。自分が望むものも分からない。さみしいんだよな、本心を分かち合える人がいないから、さみしくて、不安なんだな。ああそういうことか。じゃ願おう。

凄いと思うのは、彼女のブログには、彼女の同級生や、同級生のお母さんがコメントを寄せに来ているということだ。彼女は地域の新聞にも取り上げられている。画展も開いている。つまり、ちょっとした有名人である。仕事や学校の講演などの依頼もブログを通して交わされている。それなのに、上のような文章を載せているのである。

小生のように誰とも会わない生活を送っているならともかく、進学塾兼フリースクールの講師として勤務している彼女にとってはリスクが高いと言える。あまり過激なことを言っていると、「もうこないでください」と言われてもおかしくない。

彼(しまるこ)はアパートのワンルームでひとり、自分の心を見つめている。夜の公園でバットを振っている。心を剥き出しにして、私たちに見せてくれている。

このブログ(しまるこブログ)を勧めた友だちの多くが「サイテー」、「めちゃくちゃ下品」、「すごく偏っている」、といった。みんなぜんぜん分かっていないなぁ!(笑)このブログの魅力はその「あけすけさ」にある。だれが自分の心をここまで表現できるだろう?

こっちの台詞である(笑)

真の女性性を持つ女性や、少女漫画家の大家というのは、いつまで経っても少女である。彼女たちは大人になっても、この世に初めて生まれたかというような視点で世界を視る。

もちろん、彼女もその例に漏れない。少しだけ、紹介しよう。

思い出すのは3年前。大学4年生であった私はその日、卒論のための現地調査からの帰り、教授の運転する車の助手席に座っていた。時刻は午後6時。多くの工場が立ち並ぶ産業通りを通ると、仕事帰りのすごい数の車が渋滞をなしていて、車はびくとも進めなかった。

「これはおかしい。うっわこの渋滞、この数の車…!これぜんぶ、働きに行って帰って来る人たちの列ですよね?こんなことまでして遠くに働きに出る必要あります?そしてこの人たちが渋滞に巻き込まれながら働きに行ってそこで何をしてるかというと、誰かの車を作ってたりするんですよね。…社会というのはとても変だ。とっても変だ…!!」

すると教授はこう言った。

「うん、そういう気持ちをいつまでも忘れないでいてください。」

はい私は今でも忘れていません先生。でもどうすればいいのか分からないんです。

最近、自宅から3キロほど離れた、大資本に浸食された大通り(すき家やニトリ、マックと言った大企業系店舗がずらっと並ぶ、田舎によくあるああいう通りです)を通ったら、マツダの大きな販売店が新築されていた。そしてそこにずらっと車を買いに来た人たちの車が列をなしていた。

「うげっ。なんだあれ!あの人たち、車に乗って列作って、そんで車買いに来てるわけ?超〜変なの!!」

私がそう叫ぶと横にいたお父さんに

「そりゃそうだろ。だれが自転車乗って車買いに来るんだよ笑」

としごく真っ当なツッコミをされた。

ともかく、今の社会では、こういうことが延々と繰り返されているんだ。それは、車を買うために車に乗って来て、車を作るために車に乗って出勤するというようなことです。これはあくまで自動車業界を例に見ただけであって、色んな業界が実はこういうジレンマのもとになりたってるんじゃないかなと思ったりもします。まあ今の社会ではどんな方法であれお金は「回さ」なきゃいけないからね。

このように、大人を困らせてばかりいる。

「どうして空は青いの?」と聞いて回る子供となんら変わりはない。 

真の女性性の女性にとって、恋や性に中途半端は許されない。

彼女の中学時代、それをよく表すエピソードがある。

中学2年生のあるとき、クラスの男子生徒がちょっとエッチな漫画を描いたことがあった。漫画には私も登場し、なにか「博士」なる人に捕まって色々実験される話だったけど、読ませてもらって、「へー、すごーい。絵こまか。」と思った。

「キャー! イヤー!」とか言わずに、静かに受け止める。iphonのように100%になるまで受け止める。自分のエネルギーが完全にチャージされるまで見入ってたことだろう。次に行かない。あの幼少の写真の視線のまま、男子生徒が描いたエッチな漫画を読んでいたのだと思う。なかなか次のページに進まない彼女を、男子は不思議に思っただろう。男子の方が赤面していたと思う。

往々にして、大少女漫画家の性に対する観察眼は冷たい。「こおりタイプ」のポケモンのように冷たい。ジャニーズや韓流アイドルを見ても、そう簡単にはなびかない。なびいてしまったら、あの頃の少女だった頃のじぶんと交わした約束を破ることになる。じぶんがこれまで夢いっぱいに膨らませてきた期待に叶う男なのか、ジャッジしている。

マッチングアプリで男と会っても、

「Kさんってすごく話題の幅が広いですね。こんな話までできるとは思いませんでした。」

と言った。そしたら彼は大変自慢げな顔になって、

「まぁ、フキさんが返してくれそうな話題を僕が意識して選んでるってところは、正直ありますけどねw」

と言った。とても嬉しそうなその顔を、私は今でも覚えている。

このように、逃さない。

【マッチングアプリ体験談②】胸を震わせるのはいつだってその人の「本心」だ

恋愛に対しては譲れないところがある。恋愛において、J-POPの歌詞や、円周率のような曖昧なものは許されない。老練のそろばん師のように徹底的に弾き出す。もちろん大好きの裏返しだ。彼女たちはひどくフワフワした、ピンクのわたがしのような物語を描いておきながら、その裏では、盤面を見つめる羽生善治のように怜悧なものさしで考察する。その姿は黒衣の聖母と似ている。

図書館に調べにまで行く。

ラブストーリーは美しいです。どきどきして。男と女がいて、物語が動き出す。わかります。どきどき。

でも、異性に対する愛、つまり「恋愛」という形で感じるそれは、

全ての感情を凌駕し得る、至上最高の感情でしょうか?

例えば、失恋した後、「どうしてあんなに彼(彼女)に夢中だったのかな?」「どうかしてたんじゃないかな?」って思ったことはありませんか?

これは全くその通り、恋愛は一種の脳の錯覚とも言われ、そのメカニズムは科学的にも証明されています。

一応、図書館に行ってきちんとした出典調べました。

身も蓋もない言い方だが、「恋に落ちる」というのは、脳内の報酬系にスイッチが入ることで、「この人しかいない」という気持ちが芽生え、一人の人に夢中になること。そうした、脳内の神経ネットワークが働く一連のプロセスなのだ。

報酬系とは、喉の渇きや空腹など、生物が生き延びるために必要な機能であり、この報酬系にとって極めて大事な働きをしているのが、快楽をもたらす神経伝達物質、ドーパミン(ホルモンの一種)だ。

つまり、ドーパミンは報酬系の燃料であり、恋の燃料なのだ。

ー 奧村康一らNHKスペシャル取材班(2009)『だから、男と女はすれ違う』より(一部略)

一応、図書館に行ってきちんとした出典調べました。

……(^^;)

恋愛とは、単なる脳内のシナプスによる電気信号に過ぎないのかどうかということを調べにいったらしい。

時間が必要だ。

この映画の感想を言葉にするのには、時間が必要だ。

というわけで、公開から3年近くも経った今、ようやく考えがまとまっているのに気が付いたので、今日この記事を書いています。

↑「君の名は。」について3年間考え続ける。

ちんこというのも、言いにくそうにしている。しかし、言ってしまうのが彼女だ。そこは表現者としての気質が勝ってしまうのだろう。言わない女の子は言わない。ちんこと言うのは恥ずかしいが、恥ずかしいの先にあるちんこの正体、ちんこを前にした自分と向き合いたくなってしまうのだろう。実際に、ちんこを言うか言わないかは、女性にとって大きな分かれ道とはなる。さくらももことFukiさんは、それが分かっていながらも、言ってしまう。

クレヨンしんちゃんのネネちゃんみたいに、覆った指の隙間から覗き見るように、ちんこを見る。「女性」と名前欄に書かれたものさしと哲学書を持って戦わせる。どれだけちんこを見慣れた風俗嬢やAV女優だろうが、あるいは80を超える老女だろうと、ちんこを見ると足を止めて、宇宙を目の当たりにしたように一種の夢想に入るものだが、さくらももことFukiさんは立ち止まる時間が長い。あんなに外に飛び出ていて、壁にぶつけたらどうするのか? 痛くないのか? ちんこに時間を止められる。それは永遠にも似た4秒だ。生まれたままの瞳でちんこを見る。

別にちんこにそれほど関心がるあるわけでも、解き明かしたいとは思ってはいないが、ちんこを見ると止まってしまうことは確かである。真の女性性の女性は、ちんこの波動の影響を受けやすいのは確かである。彼女たち自身もまた、潜在意識で何か大きなものが働いているのは自覚しているだろう。バラエティ番組でアキラ100%が出ていると見入ってしまい、Fuki60%くらいになってしまう。そしてバイトに遅刻してしまう。急いで家を飛び出し、カバンの代わりにお盆を持って行ってしまう。

もし枕元だったり、身近なところ、スマホのように、すぐ手に届く場所にちんこが置いてあったら、つい引っ張ったり伸ばしたり、宙にかざしてみたりするかもしれないが、別に特段、男のズボンを下げてまで調べ上げようとは思わない。ただ、ちんこの引力に引き寄せられそうになるだけである。

真の女性性の女性は、彼女らが描く少女漫画の主人公のようにドタバタしている。本当によく泣く。

自分の時間を生きていても泣いてしまうし、自分の時間を切り離されると、つらくて泣いてしまう。

そんなある日…

特別なことが起きました。

授業中、涙がこぼれて来たのです。

90分が早く終われと耐えている状況が、辛くてしょうがなかったのでしょう。

でもそれが泣くほど嫌なことだったとは、涙が出るその瞬間まで自分でも気が付きませんでした。

そしてふと思いました。

「こんなに嫌なのに、なんで私は今ここにいるのか」

と。

なんで私はここに座ってるの。

そう……

「そんなに授業が嫌なら、私は今すぐ立ち上がって、講義室を抜け出して、外に出ることもできるじゃないか。」

私は私を動かせる。

5秒先の自分が何をしているかさえ、自分で変えられる。

授業中もずっとこんなことばかり考えている。

あーあ、私たちには見えていないものだらけで、棚に上げているものばかりでつらいつらいつらいつらい。なんか急にえーーーーーん(泣)って泣きたくなっちゃった。

平成最後というだけで泣く。

平成最後が愛おしいんじゃなくって、例えば私がおばあさんになったとき、なにか不思議な魔法にかけられて、平成のどの日でもいいから選び出されてその日に戻れたのなら、私はきっと泣いてしまう。

あ、お母さんがいる。

お父さんが目の前にいる!なんて若いんだ。

テレビのCM、懐かしすぎる!!!

今はもう絶対に会えないペットたちがいる。

みんなこうして一緒に同じ部屋にいる。

空気も音も、家具も街並みも、自分の身体も懐かしい。

もう2度と同じ状況になれない私たち。

みんな、紛れもなく生きていた・・・

いつか会えなくなるひとが目の前にいすぎて、「今」の温度や湿度が身体に密着しすぎていて、まとわりついて、離れていけばもう二度と戻れなくて、ひどすぎる。

生きているって残酷すぎて、冷たすぎて暖かすぎる、人生最後のこの瞬間。

平成が終わることには実はあまり意味がなくて、私たちこれからも、戻れない一瞬一瞬をずうっと生きていくんだ。

平成最後というだけで泣いてしまう。こんなに人間らしい涙があるだろうか?

土曜日といったらありきたりのよーな、中都市の住宅街の洗濯物がはためくような、気だるいようなこんな日が延々とくる気がするけど、2020年11月14日は地球上にもう二度と来ないと思うと鬱になる。時間というものが一回性ではなく、繰り返すものならいいのにな。

なんでこんなに優しいんだろう。

なのにどうしてちょっぴり悲しいんだろう。

悲しいと優しいは紙一重だ、きっと。

理由があって悩むこともあれば、理由がなくても悩む。それは、時間のような気がする。

彼女はいつだって今を生きようとしているけど、時間ほど移ろいやすく、時間ほど儚なくて寂しいものはなくて、いつも時間の持つ悪魔のような非情さにうちひしがれる。

女の子は寂しい。

時間を忘れることはできない。ある一種の寂しさ、侘しさ、永遠にも似た童心へのノスタルジック、悲哀、満たされているのに、時間いうものが邪魔をする。大人という寂しさ、彼女は大人になって、何でも好きな時間を過ごせて、好きなことができて、今が一番最高に楽しい時間なのに、それでも寂しさを感じてしまう。

私はあと一か月ほどで26歳になりますが、25歳への未練は全くと言っていいほどありません。5より6の方が、語呂的にかわいいじゃん、とか思うほどです。

ええ私は若いですよ。ハタチの人から見ると分かんないんだけど、まあ一ヶ月後26歳になった私も「ええ私は若いですよ。」と堂々と言ってると思う。というのも、そもそも私は若さへの執着というのがあまりなくって、それはなぜかというと、若いということがそんなに素晴らしいと思っていないからです。

それも確かだろう。

彼女は時間の持つ非常さに打ちのめされながらも、どんどん綺麗になっている。

愛は悲しい。寂しい。時間も悲しい。楽しい時間ほど、寂しいかもしれない。エルガーの「愛のあいさつ」のように、どれだけ愛の表現に成功したと思えるような楽曲でさえ、我々の心の中に一抹の寂しさを残すものだ。

家の階段を昇ったり降りたりして、皿を洗って、拭き終わって、よし片付いたと思ったら、ふと寂しくなる。時間が話しかけてくる声を感じる。近所の友達がやってきて、味噌汁のポタージュをくれると、嬉しくてたまらなくなり、同時に寂しくなる。愛の一面性だけ受け取って生きられるほど、鈍感でもないし、器用でもないからだ。

真面目だから、寂しさの正体を突き詰めたくなってしまう。時間の正体を確かめたくなってしまう。それゆえ、彼女は自分から寂しさを迎えに行くだろう。今日も寂しさを抱きしめて眠りにつくだろう。

そんな女性性の権威であるFukiさんは今まで男と付き合ったことがないらしいが、

ー 今まで彼氏は何人いたことがある?

0人です。うん、つまり…0ということです。(現実こそが慈悲、ってほんと?)

これについては語るべきところがたくさんありますがっ、簡潔に説明すると、仮にあなたが私の立場でこの人生を生き、その一瞬一瞬を正しいと思われる選択を下して歩んできたならば、こういう結果になります。やってみれば分かります。そんなに複雑な話ではありません。(ふざけているね笑)

しかし真剣な話、私は長い間、人間は「ひとり」で完成することこそが美しいと思っていました。人の気持ちは移ろうのだから、もっと普遍的なものを探さなければ私たちに救いはないぞ!とも思っていました。「性」をできる限り避けて、そこからいちばん遠いところで生きてきたのが私です(かと言って、女であることが嫌だとは思ったことはありません)。

…しかし最近、その考え方も変わり始めています。つまり「性」への向き合い方が。なんというか…、私たちは生きている限り「身体」であり続けるし、男か女かを決定づけるのは遺伝子的な「偶然」でしかないから、無理に避けたり拒絶するものでもないんじゃないの、と思い始めています。概念的ですみません。いつかこのことも改めて書きたいと思います。

「たくさんありますがっ、」の「がっ、」のセンスがいい。

彼女は動画で、なぜ自分に彼氏ができたことがないのか、色気がないのか、難しい人間だと思われているのかなど疑問を語っていたが、こうして少し前の自分がしっかり答えを出している。

器でしょう。俗は俗と付き合う。女性性の中に男性性の異物が入り混じると、だんだん女性は色気方面へシフトしていき、グラビアアイドルになりたがっていく。食べ物の関係と一緒だ。男は、有機青野菜よりも、セブンの蒙古タンメン中本を求める。味の濃い、化学調味料や添加物が大量に投下された味ばかり追い求めてしまう。小生もそういう男で困ったものだ。

『およそ世間の人情風俗を観察するほどの人ならだれでも、童貞の男女は、頭のはたらきが完全で、迅速で、しかも完璧なことに感心しないような人はいないだろう。童貞には、あらゆる畸形なものと同じように、独特のゆたかさと、強烈な偉大さとがある。生命は、その力が節約された結果、童貞の人にあっては、抵抗力と、はかりしれないほどの持続力を持つようになる。頭脳は、余力がつもりつもってたいへんゆたかになっている。純潔を守る人が、自分の体力なり精神力なりを必要とするとき、行為や思索の力をかりようとするとき、筋肉のうちに、鋼鉄を見出し、知性のうちに、先天的な知恵を見出す。それは悪魔的な力であり、意志の魔法なのである』 バルザック

その一瞬一瞬を正しいと思われる選択を下して歩んできたならば、こういう結果になります。

(ふざけているね笑)

ふざけてはないよ。小生もそう思う。小生は今でも、長い時間をかけて、「ひとり」で自己を完成することを美しいと思っているよ。小生は小生であることをやめられないし、FukiさんもFukiさんであることをやめられなかったんだろう。ずいぶん透明な軌道をがんばって歩いてきたね。

もう決してさびしくはない。なんべんさびしくないと言ったとこで、またさびしくなるのは決まっている。けれどもここはこれでいいのだ。すべてさびしさと悲傷とを焚いて、人は透明な軌道をすすむ。宮沢賢治

透明な軌道の上に、立っててくれなかったんじゃないかね。

 

 

5 Fukiさんの女性の最高種である女性性と笑いとエンターテイメントの関係

 

女性性の最高種である女性は、笑いを追求してこなかったとしても、笑いというものがわかるものである。自身はそれを発信できなくても、受信はできる。

とはいえ、男性性と女性性では多少の誤差は生まれる。

彼女が動画で語っていたが、サラリーマンの三人組が横断歩道の前で信号待ちしていて、彼らが同時にペットボトルを口につけて飲みだした、そのタイミングが三人とも一緒だったという話を楽しそうに話していたが、それは真の女性性の女性の笑いではない。俗の女性性の笑いである。

しかしその笑いはよく女性性の笑いを表している。女性は確かにそういったネタで笑うことが多い。

一応、整理しておこう。

男性性の最高種であるエンターテイメントとは

松本人志 寿司 コント

松本人志 コント 2

クロちゃんで笑ったら即引退

パシフィックヒム

板尾創路 ボケましょう

 

女性性の最高種であるエンターテイメントとは、

アドベンチャータイム

ジャルジャルコント「『定期的?』って言う奴と関西出身のツッコミ下手な奴」

となる。

小生もあのジャルジャルのコントを見た時、同じものを感じた。真の女性性の女性の最大沸点の笑いはあれだと思う。彼女の言う通り、最高の芸術作品のひとつである。

アドベンチャータイムは見ていないのでわからないが、漫画だと、男性性の最高種の笑いはこれになる。

笑いというものがもっとちゃんと分かったらなぁと思う。笑うと人は必ず幸せな気持ちになっちゃうから、笑いとは高尚な芸術だと思う。ほんとだったら私も、シュールで皮肉で、ゆるくて、それでいて世界の真実を含んでいて、爆笑はしないけど人生で何回も思い出しちゃうような、そういう漫画が描きたい笑

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