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Fukiさんへのファンレター 1通目

序文

 

小生は彼女に元気でいてほしいのである。もし彼女が迷ったり立ち止まったりして自分を探したくなったら、これを一つの材料としたり、元気が出るために戻ってこれるようなものを書き残したいと思った。

というのも小生が、彼女からファンレターを貰って、ちょっと不安になったり、元気がなくなったりするとき、それを読んでいると、元気が湧いてくるからである。何でもできそうな気になってくる。小生も彼女にそういったものを書き残すことができたらと考えるのである。

右のスクロールバーが烏のフンみたいになっているだろう。これがあと2通続くんだ。これからずいぶん長い、長い、嘘のように長い文章が続くが、人は自分のことを6万2600字も書かれたら、何か悪口を書かれてるんじゃないかと思って、ビクビクしながらスクロールしなければならなくなるかもしれないが、その心配はない。いつも女の悪口ばかり書いている小生が6万2600字も書いているのだから、不安になるのも無理のないことだが、そんなものを読むほどくだらない時間があるだろうか? 

ここで始めに言っておくが、そんな言葉は出てこない(はずだ)。少しばかり心の中を土足で踏み入るような、紳士にあるまじき行為もあったような気がするが、彼女の偉大な魂と向き合うためにはやむを得なかった。

文章とは、物事を明らかにするためではなくて、人を楽しませるためにあるのだから、ただ楽しんでくれればいい。楽しんで、寝て、また明日、太陽の日の出と共に、再び初めてこの地球に誕生したような気持ちで目覚めてくれればいい。

 

 

1 Fukiさんと自然

 

彼女とは、互いのブログでコメントを寄稿している仲だが、もう1年ぐらいの付き合いになる。

出会いのきっかけは、小生が彼女の漫画を読んで感動したからだ。

初めて漫画を見た時は光っている気がした。本当に原稿が輝いて見えたのだ。原稿といっても、画面越しの、デジタルのものだが。確かに、漫画というのものは輝くことがある。ドラゴンボールのベジータ戦、スラムダンクの山王戦でもいい。それは、面白いとか、センスとか、ストーリーやキャラクターを超えた、圧倒的な光。お世辞にも絵は上手いと言えなかった。小学生が書いたかのような絵で、25歳が描いたものとは思えなかった。この頃はまだ、モノローグやセリフばかりで構成されていて、絵はお飾りのようにおまけでついていただけのようなところがある。しかしプロアマ含め、市場で売られているどんな漫画よりも素晴らしく思えた。セリフの一つ一つに落雷を打たれた。

ショーペンハウエルが、「秀才とは古今東西の書物を読破した人物。天才とは自然という書物をそのまま読破した人物」という言葉を思い出した。

まぁ、読んでもらえればわかる。

24歳にしては達観している。どこまで一人で考えつづけてきたんだろう? 生粋の孤高の哲学者を感じた。彼女の小さい頃、ランドセルを背負っての帰り道、友達と一緒に下校しながら、彼女だけ一人で歩いている姿が浮かんだ。

俺は思わずこんなコメントを残してしまった。

 

 


後にも先にも、SNSでこんなコメントを残したことは初めてだった。

彼女は変わっていると言えば変わっているが、普通と言えば普通の女の子だ。

しかし、皆が言う普通とは違う。

これはまだ彼女が地球に誕生したばかりの頃の顔だ。大人より賢そうな顔をしているだろう。事実、大人より賢い。黙ってこうして膝を抱えて座られているだけで、白旗を揚げたくなるだろう。

いつだってこのぐらいの歳の子供は、大人より賢そうな顔をしている。

この顔を見ていると、大事なことは、積み上げることではなく、積み減らすことだと感じる。事実、我々もこんな目をしていた。

山岡鉄舟と、その師匠との会話を思い出す。

「 お前の言う事は正しい。しかし自分らの考え方に従って遠慮のないところを批評するとなれば、現在のお前は眼鏡を通してものを見ているようなものだ。確かにレンズは透き通っているから、さほど視力を弱める事はないとは言える。しかしもともと肉眼に何の欠点もない人は、どんなに良いレンズであろうとも、普通ものを見るときには使う必要がないばかりか、使うことが変則であり、使わないのが自然と言うものだ。現在のお前は、この事を問題とするところにまで進んできている。もし眼鏡という障害物を取り去ることができるならば、たちまち望み通りの極地に到達できるに違いない。ましてお前は剣と禅の二つの道とともに進境著しい人物である。一旦はっきりと道のあるところを悟ったならば、殺活自在神通遊化とも言うべき境地に至るのはわけのないことであろう」

子どもの頃、大人たちに「お地蔵さん」と呼ばれていた。とにかく笑わない子どもだったらしい。いつも何かを深刻に考えている子で、基本的にしゃべらない子どもだった(今でもわりに無口だけれど、幼少期は今以上に無口だった)。

わたしは幼い頃のかなりの期間、生きることは「絶望」だと思っていた。4歳のある瞬間に「わたしは地獄に落ちるんだ」という確信が芽生えて以降、小学3年生になるまでその考えは消えることはなく、「生きていたってなにも楽しくない、だって私は死んだら地獄に落ちるから。」とずっと思っていた。

私は「ごくフツーの子」でした。空気のように静かにひっそりと、ただ可愛く存在している女の子。しかし「私は地獄に落ちるのだ」「死ぬのって怖いな」ということが小学校時代の私の心の大半を占めていたから、どことなく暗かった。それ以外にはまあ、友だち付き合いとかにも普通に心を悩ましていたと思う。とにかくこの時期のもので笑っている写真が極端に少ない。暗い。暗かった。

以下は、彼女が小学校一年の頃、担任の先生によって書かれた文章である。

大事な部分を抜粋するが、

班でカルタ取りをやった時、なかなか礼(←先生、札という字を間違えてるw)を取れない友達を思いやり、自分が先に見つけても、その子が取るまでじっと待っている、という姿が何度かありました。その子が取れた時、ほっとしたような何とも温かい表情をしたのが深く印象に残っています。何事にも誠実に取り組める力を大切に、二年生でも活躍して欲しいです。

ここでいちばん着目すべき点は、

二年生でも活躍して欲しいです。

ということだ。二年生ってまさか中学二年生のことじゃないだろう? 中学二年だったら、Fukiさんはコント師の養成中学校に通っていたことになる。

Fukiさんは、小学校一年のときに、こんなことをやってのけているのである。そりゃあ先生だってびっくりして漢字がカルタのように飛んでいってしまうわけである。

先生は、通信簿に書くことに困って、無理に頭をひねって絞り出したわけではないと思う。Fukiさんのことが、そういう人間にしか映らなかったのだと思う。

幼少期について触れたのは、幼少期の行動に、核となる部分が眠っているように思うからだ。

彼女はなぜか、中学の通知表もブログで晒している。しかし素晴らしい成績だ。他の教科は5と4なのに、家庭科だけ3だ。家事はあまり得意ではないのだろうか?

個人的なハナシ…私はずっと、「何かがおかしい」って感じて生きて来ました。それは一概に、人生を、なにかをこなすための時間のように感じていたんです。誰かにテストされているような気がして、自分の人生に点数がつくような気がしてました。

いい大学に入るとか、いい仕事に就くとか、でやっぱり大人になってもこなさなきゃいけないことは山ほどあって、生活費を稼がなきゃいけない、物を買わなきゃいけない。車を買わなきゃいけない、裕福な暮らし、あるいは少なくとも「中の上」くらいを目指さなきゃいけない。

私。この頃にあった私。こんなふうに人は誰しもこの世界について、そしてこの世に「存在し」「生きている」ことについて答えを見出そうとした幼い頃の経験があるのです。

しかし私たち大人は「日常」と「常識」を繰り返しすぎて、なかなかそこには戻れません。

思えば私たちは、今より遥かにピュアで、根源的で、真実に近い場所で思索をしていたのに…。

幼いとき。私は家のリビングに座っていて、ふと、「死んだとき、ここでこうしている自分がいたことを、どこか上から見下ろすのだろう」と思いました。そして自分がここにいることを「客観的」に俯瞰して見るのをイメージしてみました。

すると、こうしてリビングに座っている私を客観的に見ている私がいるのですが、でもそれを思い描く私もいま「生きてここにいる」私だから、そんな私がいることをまた客観的に見ている私がいて、でもそれもまた「生きている私」でしかなくて、またそれを見ている私がいて、それもまだ「私」だから、それを見ている私がいて、私がいて、私がいて……

ものを考えるには空っぽになる必要があって、彼女がものを考えているというよりも、空っぽの彼女の心に、入ってくるのだろう。

自分の奥深いところをじっと見つめたまま横たわり、そんな時間ばかり過ごしてきた。歩きながらもやっている。小さな頃、ランドセルを背負って友達と一緒の帰り道、その頃からやっている。自分のいちばん根を下ろした、いちばん深い部分、その住人といっていい。Fukiさんの言葉はいつもここから出ている。漫画もブログも動画も。

彼女は非常に客観的な人間だと思う。自分がふと感じたことをそのままで終わらせない。静かにしていると、限りなく静かにしていると、確かにその虚無と自分が一体となる感覚を覚える。注意しているのだと思う。その時間と空間から外れないように、注意している。それが彼女の仕事といえる。漫画はそのアウトプットに過ぎないかもしれない。

自分の心に注意深い人は少なくないが、空間や次元に注意深い人は稀だ。それは人をイライラさせてしまうことも少なくないから、黙っていなければならない、という理由も後押しされる。それゆえ、彼女はこの透明の軌道を一人で歩いてきた。今も歩き続けている。

こんなにフワフワしていたら、実生活に支障がきたさないか? と思われるかもしれない。

じっさい、きたしている。

これは私が2年前に住み込みで旅館で働いていた時のこと。私はその日フロント業務のミスをして、控え室で支配人に怒られていました。

「クーポン処理のことだけど、ここの欄に記載あったらチェックインの時に確認せなならんの…前一度ゆうたな?…ぼくら会計のとき必ずお客さんのクーポン確認してるの知ってた?知らんかった?…ああ、全然見てないんやな。だめやな…」

はァ、すみません…。

とか怒られてる時に、すかさずじっと相手の指を見る。

すると、「ああこの人はすごく真っ当なこと言って、さも今ここではすべて自分が正しいと思ってるんだろうけど(正しいのだけどね笑)、結局、抗えないのだ、自分の指のカタチに。自分の指が5本であることに…!それは自分が決めたことではないのに、さも自分が始めから創って自分のものにしているかのようだ!」

みな、自己を完成させてるように見えて、自分の意思で生きてるように見えて、結局指が5本であることからすら逃れられないのだ!!!!

「5本5本ってそんな、、指が3本とか4本の人もいるじゃないですか!」という人がいるかもしれないけど、問題はその本数じゃないんだ。言いたいのは、私たちは何にも抗えないし、私たちの身体のどこにも私たち自身で作ったものはないということだ。

周りを見渡せば、こんなに人工物が溢れ設計に溢れ意図に溢れたこの街で、「身体」こそ一番近くにあって一番よく使うものなのに、この形を何一つ自分たちで決めてはいない。

人生は思いのまま。行動するがまま、社会は私たちで変えられる、We Can Change The Worldっ!!しかし私たちは手の指の数、足の指の数、何一つ決められないまま生まれて使って死ぬ。

 

2 Fukiさんと漫画

 

Fukiさんの漫画は、少女漫画よりも少女漫画らしい。

俺は母と姉が少女漫画が好きで、本棚にぎっしり少女漫画が詰まった家庭で過ごしてきたが、Fukiさんほど少女漫画らしい少女漫画を読んだことがない。

それは単純に、恋愛恋愛している、という意味ではなくて。ただ純粋な女性性がつらぬかれている。そのパワーが桁違いなのだ。

少女漫画の大家だとしても、ここまで少女漫画らしい少女漫画は描けない。強いていうなら、いちばん近くに感じるのは、さくらももこか。しかし、持って生まれたものは、さくらももこ以上だ。

Fukiさんは、今でも偉大な漫画家だけど、将来、ぜったいに日本最高の漫画家になる。俺にはわかる。

私がひたすら目指してきたのは、自分自身というものをさらに賢明に、さらに良くすること、自分自身の人格内容を高める、さらに自分が善だ、真実だと認めたものを表現することであった。ゲーテ

「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ」サン・デグジュペリ

他の漫画家と違うのは、こういうところかな。

「精神的に生きる」を人生のスローガンにしている彼女にとって、それが漫画と一体になっている。かならずしも、徳や、善を、押し出すために漫画を描いているわけじゃないだろうが、今の、等身大の自分を、打ち出して、描いている。

『神秘的慣性』

新たな詩人よ。雲から光から嵐から、透明なエネルギーを得て、人と地球によるべき形を暗示せよ。宮沢賢治

漫画もブログも動画も、すべて一貫している。彼女は宇宙の神秘的慣性の影響を受けやすく、それを形にせざるを得ない。いつも彼女の背後に大いなる突き動かされるものがあって、その波動を感じている。それを形にせずにはいられないように思う。誰に何を言われようと、ずっとそれを描いている。

といっても、彼女は人間を描こうとしているし、ドラマも描こうとしている。

夢や目的が見つからなくて、だからこそみんな悩んでるんだと思うけど。目的がないけど生きていく、その姿が新しい時代の賛歌になるとも思うんだけれど。虚無に立ち向かった人にどう目的を持たせたらいいかなんて分からないよ。

虚無に立ち向かった人にどう目的を持たせたらいいかなんて分からないよ。

虚無に立ち向かった人にどう目的を持たせたらいいか分からない……?

虚無に立ち向かった人? 目的?

……。

正直、ここまで大地や風の干渉を受けて、それを作品にしているという人を見たことがない。宮沢賢治や、サンテクジュペリの系譜といったら、雑な捉え方かもしれないが。

今作、すごくよかったです!

家庭内を生き抜くための処世術として存在論的虚無に陥ってしまった主人公が救済される話、とでもいえばいいのでしょうか。おそらく類似したテーマのものはあるでしょうが、キャラクターを丁寧に考え抜いて作っておられるため、独自性の高い読み物になっていると感じました。

キャラクター作りはできつつあると思うもので、次はドラマ作りに挑んだものを見てみたいです。

たとえば本作のアオちゃんが物理的思考法では切り抜けられない大ピンチに陥ったとしたら、それはどんなもので、どう乗り越えるのか……。Fukiさんなら偶然性に逃げないで、読者にも困難に立ち向かう勇気を与えるドラマを紡げるのではないかと思いました。

編集にこのようにアドバイスされても、それを続けているのである。彼女がそうしたい、そうしようと思っている以上のものが働いているように思う。

少女漫画家の感性として、いや、女性として、これ以上ないものを感じる。これが、真の意味での女性か、と思ってしまう。

小生は女性を研究してきた。モテたいというのもあるが、純粋に興味があった。どこでどの女性に出会っても、手持ちの望遠鏡で観察してきた。交際には恵まれず、目と手が届く距離での観察こそ叶わなかったが、彼女の漫画の中にそれを見た。

ゲーテは弟子のエッカーマンにこんなことを言っている。

完全なものだけを見ることによって、趣味というものができるんだ。なぜなら趣味は平凡なものを見ないで、最も秀れたものを見ることからのみ養って行けるからだよ。だから、私は君にただ最良のものだけを見せる。そして君がそういうものに土台を置いたら、他の物に対する尺度も持つようになり、適正に評価ができるようになるだろう。ゲーテ

手塚治虫も同じことを言っていた。

君たち、漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。

一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。

そして、それから自分の世界を作れ。

小生は彼女の漫画を一目見て、超一流の女性だと思った。彼女を見ていれば、女性というものがわかる気がした。

そして、自分の世界を作れる気がした。

しかしまあそれは置いといて、とにかく私はもっとドラマを描ける漫画家になりたいのです!(目的。)

彼女は人を描きたいと思っているし、ドラマも描きたいと思っている。嬉しいことに、しまるこブログからそれをいちばんに学んでいると言ってくれている。

人間ドラマを描きたいのなら、マッチングアプリの体験談を描くのもいいかもね。

【マッチングアプリ体験談①】2回目のデートを渋ったら怒られちゃった話。

これは人間ドラマがあったよ。

Fukiさんの漫画のいちばん好きなシーン

「突き当たった壁はまたも同じもので」

彼女は、最後の壁にぶち当たるまで思索をすることができる人だから、最後の一点に迫ることができる。彼女の作品から出てくる台詞は、すべてそこから生まれている。

先ほどは、自然とのパイプがどうだとか、磁場の干渉を受けやすいなどとは言ったが、本当のところでは、彼女は意志の人である。最後の最後に迫ることができて、最後を越えていける女性である。同時に、最後の方でも彼女を追いかけているから、彼女は何でも早く気づいてしまえるんだろう。

いつも彼女の悩みは一貫している。いつも同じ壁で苦しむ。それは逆にいえば、他の壁はもろともしないということだ。みんな、その前の壁を越えられずにいる。金、恋、物質、贅沢、いろいろね。

どうしても、うまくいかない日があるかもしれない。ペンがいうことを聞いてくれないこともあるかもしれない。一日中、部屋でボーッとして過ごしてしまうかもしれない。自分を責めてしまうかもしれない。小生も、しょっちゅう同じ壁で行き詰まる。こればっかりは、しょうがないね。なるようになる、を信じるしかない、か。が、壁の方は逃げていかない。Fukiさんに飛び越えてほしくやってきているだけだ。壁は、 Fukiさんのことが大好きだからやってくるんだ。Fukiさんが幸せになれるようにね。

この世界は幻で、夢のようなもの。巨大なディズニーランドみたいなものなんだから、楽しまなければ嘘になる。

コミックエッセイ大賞に落ちた。しょぼーん。

noteで開催されていたコミックエッセイのコンテストに落ちた。自信があったわけでないけれど、まあ、大方、6〜7割の確率で何かの賞には入賞するんじゃないかな、と思っていた(それが自信あったって言うんだよ笑)。

就活を辞めた大学生が人生を模索し旅に出る体験談。一昨年から書き始めて、9話書き終えた。旅が終わりに差し掛かったあたりでこのコンテストが開催され、まさに私のためのコンテストだと思った。

グランプリは書籍化と、ドラマ化。

グランプリは難しいとしても、少なくともこんなに「いいね」してくれた人がいるんだし、荒削りかもしれないけどストーリーの筋書きは出来上がっているんだし、書籍化を検討してくれる人がいてもいいんじゃないか、と思った。どっちかというと、時代に合った題材だとは思うし…。

驚いたのは、入賞に「かすりもしなかった」ことである。

受賞作品を見てみる。(著者名略)

【幻冬舎賞】40歳になって考える父親が40歳だった時のこと

【テレビ東京賞】

いい加減婚活しなきゃと思ったアラサーオタクの漫画

【cakes賞】

ワクワクはどっち?

【特別賞】

ハトコの育児川柳

本気で目指した堂本剛の嫁

カナダの引越しが日本と全然違った話

ゴミ食う日々

35歳とか関係ない。人は傷つけられたら傷つくねん。

受賞作を読むと、どの作品も上手いし読みやすいけれど、、でもエッセイ漫画に求められているものとは、絵の上手さとかストーリー展開の面白さとかじゃない。それが「リアルさ」と「共感」、だとしたら、私の作品がこれらの賞にかすりもしなかったのはなぜだろう?本当になぞ。タイトルに年齢入れればよかったのか?「24歳、就職路線を外れた女子の末路っ!」って?ばかみたい。

でも真剣な話、私の漫画には何かが足りなかったんだろうな。

私の中には「恐怖」がある。そのひとつに、やっぱり「評価されることの恐怖」がある。

伝え方を誤って、人が離れていくのは怖い。しかし、「これを受け取ったら相手はどう思うだろう」という忖度をするのはとても疲れる。「伝える」ことに他人の「評価」はいるのか?私は、インスタグラムでよく、自分の「想い」や「伝えたいこと」を表現すると、フォロワーがあからさまに減る場面がある。(多くは、環境問題や動物愛護についての投稿)

ああ、「思想」は邪魔なものなのか、とか思う。

だれも、誰かの「強い想い」なんて見たくないのかもしれない。。と思ってすごく落ち込む。

落ち込む。というかむかつく。最近、その「怒り」の持って行き場が分からない。夜中、衝動的に怒りを文字にし、ツイッターに投稿するも、いいねの数が少なく、下手すりゃフォロワーが途端に減ってたりして、そしてまた落ち込んで、投稿を削除したりする。

環境問題はじめ、動物愛護の活動をしている人が誰もが行き当たる問題、「伝え方」の話。あまりにも悲観的だったり、批判的だったりすると人は受け入れられない、むしろ反発してしまう。何かを主張したり誰かに変革を求める活動家に対して、攻撃的なコメントを投げる人が多いのはそのせいだと思う。だから「伝え方」には気を付けましょうね、って話はよく聞く。

すごく分かる。

けどね…

知らねーよ!!!!!!

と今は叫びたい。

だれかの主張を見ただけで傷付くなよ、反発するなよ、と、正直なところ思う。傷付くのは、その人に主張も主義も思想もないからでしょ。

「押しつけはしたくないよね」

なんて、よくそんな綺麗事が言えるよな、私。虫唾が走る。そもそもそんな大きな器でもないし。

で、私は、フォロワーが減ったり、コンテストに落ちたり、そんなことで落ち込んでるんじゃねーよ!!!!!

何を気にしているんだ。

何を守りたいんだ。

天秤の向こう側にあるものは、なんだ!!!

でもやっぱり、表現することって、怖い。

冷静になって考えると、今回、一年半かけて描いてきたエッセイ漫画が微塵も評価されなかったのは、やっぱり悲しいことだったと思う。それで今日は意味もなく寒空の下、5kmも歩いちゃった。暴言吐きたくもなるよね。

どこもかしこも看板看板。ウゼェー

造花ウゼェーー!!

圧倒的にFukiさんの漫画がいちばん面白かったよ。圧倒的にね。東村アキコの「かくかくしかじか」より良かった。あれでいい。あれ以上の漫画はありはしない。大丈夫だから、そのまま描き続けなよ。

 

 

3 Fukiさんと動画

 

Fukiさんは動画の冒頭で必ず、「皆さん、今日はどんな一日をお過ごしになられましたか?」と言う。小生は、

「ヘンリーさんのハースストーン動画を見てました!!!!」

といつも、スマホの前で大きな声で答えている。

Fukiさんは最近YouTubeを始めた。

深夜に、家族が寝静まった頃、車に乗り込んで一人フリートークを始める。そこには台本もなければ編集もない。日中、散歩して自転車に乗ったりして、そこでふと浮かんだことをあてもなく話し始めるだけだ。

何も思いつくことがなくて、そのまま黙り込んだり、あるいは当意即妙で得たものをフツフツと話したりする。無骨というか、男らしいというか。ガキの使いのフリートークに挑む松本人志のようだ。こんな事をしようとする女の子が他にどこにいるだろうか?

確かにニコ主だったりYouTuberだったり何でもいいが、無編集でただ何かをとりあえず喋ってみようと特攻の人の動画はあるけれども、彼女のは少し違う。純文学を動画でやっているようなものだ。

それが面白い。彼女は才能がある。度胸がいい。何も話すことを用意しないで収録に臨む。自分を過信しているわけではないだろうが、台本を用意して話すと、魂がのらないのを感じるのだろう。その時いちばん胸にあるものを選択していくすべに長けている。いつも自分の胸の中心にある言葉を見つめて過ごしているからだろう。これは26歳の女性が、さて車に乗り込んだところで、みんながみんなできるものではない。数字や理系的概念にも強く、地頭がいいことも手伝っている。

うん。とても可愛い! とてもチャーミングだ!

顔も可愛いし声もいいし笑顔もいい。いい魅力がある。トークが上手いのは、ふだん自分と対話して、いちばんまっすぐな言葉を見つける習慣があるからだとは思われるが、

私は話すテーマを決めて3〜4回撮って、その中からいちばん良いものを選んでアップロードするのですが、多くの場合「2回目」に撮ったものが1番良いように感じます。一度、実験的に「2回目」撮ったものと「4回目」撮ったもの両方を上げて、比べて見ていただきたいものですが…たぶん分かると思います。4回目だと顔が疲れています。そしてなにか、喋っていることとは別のところで意図が働いているのが感じられるはずです。

話す内容をあらかじめ決めて話すと、どうしても自然でないものが生まれてしまいます。「本当の気持ち」と離れた所でふわふわしている感じが受け取れてしまいます。「ここでこれを言おう」「ここでこの顔をしよう」という意図が感じられてしまって気持ち悪い。なので自分の意図が生まれない段階のものがかえって本当に「感じている」ことに近かったりして、これは不思議なものです。

そのとき言葉の表現が拙かったり、話の辻褄が合わなかったり、「うーん」とか「えーっと…」とかいう無駄な台詞がどうしても増えてしまいます。しかしそれはたいした問題ではありません。要はそこに「気持ちが乗っている」方が大切なので、即興というか、何も意図しないままぽつりぽつりと喋っているのが結局は一番良いように感じます。

この文章を見て納得した。よく気づけるなぁと思った。才能とはよく気づけることをいう。

瞬間、瞬間的に、いちばん生命力があるものを選択しなければ気持ちが悪いのだろう。

本当はこの世界の美しさや太陽の素晴らしさ、気持ちのいいものだけを切り抜いて、それを視聴者に届けられるたら一番いいとは思っているだろうが、彼女は、そのとき心にあるものを選択する。後で消すことになっても。

急に、私は生理ですとか言い出す。この前も、ここは寒い県だから窓を開ければ涼しくなるのに、職場の同僚がクーラーをつけて室内温度を21°にした! と、ブツブツ文句を言っていた。同僚は自分でクーラーをつけておいて寒くなると服を着込んだらしく、それに対してはFukiさんは、「まずは服を脱げや!」と、深夜の車の中でブツブツ文句を言っていた。小生と同じで、当人に読まれる可能性がなさそうな場合は、こうやってたまに毒を吐いている。

やはり、間だと思う。文章でいえば行間に神が宿るように、トークも間に神が宿る。多くのYoutuberはカットを多用し、間を殺してしまうが、彼女は間を活かす。小生は彼女の間が好きだ。

車内灯が切れると、無言でドアを開け閉めするところもいい。

小生だったら、

「テメェ何回目だオラァ! 人が話してるのになんなんだよテメェは! テメェ何回目だよ! 毎回だよなぁ!? 毎回、毎回! ご主人様が話してんのにてめぇ、何回目だよ! 時速180キロでコンビニに突っ込んでやろうか!」

と、車と喧嘩を始めるギャグをやるところだが、まぁ、いい。

 

 

4 Fukiさんと女性性

 

一般的に女性は勇気がないと思われているが、真の女性性の女性となると勇気はあるものである。

真の女性性の女性は、自分の顔や、仕事や、住んでいる土地や、家の庭、何でも公開する。

陶芸家が碗を割るように、作品は書いたり消したりしているが、プライベート的な部分は大味のようだ。個人情報を抱きしめて眠る一般女性とは一線を画す。ふだん自分が戦っているものと比べたら、どうってことないからだろう。真の女性性の女性とは、男らしいものである。

バイトもその場で辞めてしまう。

顔だろうが住んでる場所だろうが、心の中だろうが、何でも晒す。

ええと、あまり人の日記を公開するのはどうかと思ったが、自分のブログで公開してるからいい……んだよね(^^;)?

2/10(水)

次。次に行きたい。場所じゃない。心。精神。行い。次のところに行きたい。この衝動はなんだろう。この違和感。ここじゃない、わけじゃない。でも、次に行きたい。それは「新しい」場所?うん、新しい、かもしれない。違う自分になりたい。「違う」?というか、「次」の自分。最近さらに誰かに「認められたい」、その想像を頻繁にするようになったのは何でだろう?だれかに「すごい」って言われたいのかな、なんか、とにかくものすごく“孤独”、なんだよな。精神的に…?安心感。だれかと分かち合うなにかがほしい。Aさん(友人)と会って、何か通じ合える片鱗が見えたのは、うれしかった、というかショックだったなぁ。こういう可能性が世界には満ちていることに。めんどくさいというか。やりきれないというか。ひとりじゃない、いつだって、ひとりではないんだけど、なにか孤独だ、ものすごく。身動きが取れないほどに。私じゃない、他の何かと溶け合いたい衝動。何か大きなものに身を委ねたい。外部。融合。混沌。“筒”でありたい、私は、ただエネルギーを介すだけの筒でありたい。仲介者。「私」じゃない、重きを置くものは。それは、宇宙、とか、真理とゆうやつ、なのかもしれない。歩きたい。歩いて歩いて歩いて歩いて、ぼーっとしてたい。時間を費やしたいのか、からっぽになりたいのか。なんでこんな、疲れてるんだろう。疲れてるというより、負けている。何か、重圧に。そんなものないのにね。重圧、それは、正しさ、とか、正解、とか?てゆーか何もしたくないなぁ。

望むもの、は何?何がしたいどうなりたい?ああとても、「自分」でありたい。そして同時に変動的でありたい。筒だもの。笑いたくもないし話したくもない。黙っていたい。でも言葉は美しい。「私」がなくなりそうだ。そこに、執着がなくなりそうで、それはなんか、さみしいことのような。でもその先に何が待ってるんだろう?誰がいるというのだろう?なんかとても神聖な花畑に行きたい。花畑じゃないや、川。死にたいわけではない。夜空。天国に近い場所は、そこかしらにある。天国にいる動物はそこかしらに飛んでいるのに、この世界の川はごみだらけだから嫌。それを混沌と呼ぶ。ここには天国も俗世も混じっているから、たまにみんな頭がおかしくなる。泣きたいなあ。泣くのは、どこまでも「自分」であることなのに、泣きたい。この世にいる限り、何かと対になってでしか救われないからバカバカしくなる。男女。友人。あるいは神さまと。ただひとりで完結することはできないのか。それだけで、救われて、完成することはできないのか。そのルートが知りたい。そのトンネルのありかを知りたい。一人でいたいわけじゃない、でも、外部は不変であることはないから、自分が自分だけで「完結」する方法を知りたい。それは芸術?ああだから人は絵を描いたり詩を書いたりするのかな?ただ、より普遍的なものと繋がっていたいだけ。てゆーか私はもしかして性と戦ってるのか?女でありたくないし男になりたくもある。

折り合いがつかない。誰かとしゃべっていたって、つまんないことしか言えないし。みんな戦っているのかな?そういうものと。でも誰かと何かを共有したい気持ちはある。でもその不完全さに、頭がしびれるよー。日本語にも種類がある。まあ大丈夫、なにかがわかちあえるというのなら。生の淵を意図的に歩くことはできるのか。神は横にいる。今も。ああ私はただ精神的でいたいだけなんだ。だけど行く場所がないんだってば。あるのかもしれないけど。変わりたい、次の場所へ行きたい、変化、変化、変化、変化。だれかが導いてくれるわけでもない。自分が望むものも分からない。さみしいんだよな、本心を分かち合える人がいないから、さみしくて、不安なんだな。ああそういうことか。じゃ願おう。

凄いと思うのは、彼女のブログには、彼女の同級生や、同級生のお母さんがコメントを寄せに来ているということだ。

環境活動家としての側面を持つ彼女にとって、地域の新聞にも取り上げられている。画展も開いている。つまり、ちょっとした有名人である。講演などの依頼もブログを通して交わされている。それなのに、上のような文章を載せているのである。

小生のように誰とも会わない生活を送っているならともかく、進学塾兼フリースクールの講師として勤務している彼女にとってはリスクが高いと言える。あまり過激なことを言っていると、「もうこないでください」と言われてもおかしくない。

彼(しまるこ)はアパートのワンルームでひとり、自分の心を見つめている。夜の公園でバットを振っている。心を剥き出しにして、私たちに見せてくれている。

このブログ(しまるこブログ)を勧めた友だちの多くが「サイテー」、「めちゃくちゃ下品」、「すごく偏っている」、といった。みんなぜんぜん分かっていないなぁ!(笑)このブログの魅力はその「あけすけさ」にある。だれが自分の心をここまで表現できるだろう?

こっちの台詞である(笑)

真の女性性を持つ女性や、少女漫画家の大家というのは、いつまで経っても少女である。彼女たちは大人になっても、この世に初めて生まれたかというような視点で世界を視る。

もちろん、彼女もその例に漏れない。少しだけ、紹介しよう。

思い出すのは3年前。大学4年生であった私はその日、卒論のための現地調査からの帰り、教授の運転する車の助手席に座っていた。時刻は午後6時。多くの工場が立ち並ぶ産業通りを通ると、仕事帰りのすごい数の車が渋滞をなしていて、車はびくとも進めなかった。

「これはおかしい。うっわこの渋滞、この数の車…!これぜんぶ、働きに行って帰って来る人たちの列ですよね?こんなことまでして遠くに働きに出る必要あります?そしてこの人たちが渋滞に巻き込まれながら働きに行ってそこで何をしてるかというと、誰かの車を作ってたりするんですよね。…社会というのはとても変だ。とっても変だ…!!」

すると教授はこう言った。

「うん、そういう気持ちをいつまでも忘れないでいてください。」

はい私は今でも忘れていません先生。でもどうすればいいのか分からないんです。

最近、自宅から3キロほど離れた、大資本に浸食された大通り(すき家やニトリ、マックと言った大企業系店舗がずらっと並ぶ、田舎によくあるああいう通りです)を通ったら、マツダの大きな販売店が新築されていた。そしてそこにずらっと車を買いに来た人たちの車が列をなしていた。

「うげっ。なんだあれ!あの人たち、車に乗って列作って、そんで車買いに来てるわけ?超〜変なの!!」

私がそう叫ぶと横にいたお父さんに

「そりゃそうだろ。だれが自転車乗って車買いに来るんだよ笑」

としごく真っ当なツッコミをされた。

ともかく、今の社会では、こういうことが延々と繰り返されているんだ。それは、車を買うために車に乗って来て、車を作るために車に乗って出勤するというようなことです。これはあくまで自動車業界を例に見ただけであって、色んな業界が実はこういうジレンマのもとになりたってるんじゃないかなと思ったりもします。まあ今の社会ではどんな方法であれお金は「回さ」なきゃいけないからね。

このように、大人を困らせてばかりいる。

「どうして空は青いの?」と聞いて回る子供となんら変わりはない。 

真の女性性の女性にとって、恋や性に中途半端は許されないらしい。

彼女の中学時代、それをよく表すエピソードがある。

中学2年生のあるとき、クラスの男子生徒がちょっとエッチな漫画を描いたことがあった。漫画には私も登場し、なにか「博士」なる人に捕まって色々実験される話だったけど、読ませてもらって、「へー、すごーい。絵こまか。」と思った。

「キャー! イヤー!」とか言わずに、静かに受け止める。あの幼少の写真の視線のまま男子生徒が描いたエッチな漫画を読んでいたのだと思う。なかなか次のページに進まない彼女を、男子生徒は不思議に思っただろう。男子生徒の方が赤面していたと思う。

往々にして、大少女漫画家の性に対する観察眼は冷たい。ジャニーズや韓流アイドルを見ても、そう簡単にはなびかない。なびいてしまったら、少女の頃だったじぶんと交わした約束を破ることになる。

図書館に調べにまで行く。

ラブストーリーは美しいです。どきどきして。男と女がいて、物語が動き出す。わかります。どきどき。

でも、異性に対する愛、つまり「恋愛」という形で感じるそれは、

全ての感情を凌駕し得る、至上最高の感情でしょうか?

例えば、失恋した後、「どうしてあんなに彼(彼女)に夢中だったのかな?」「どうかしてたんじゃないかな?」って思ったことはありませんか?

これは全くその通り、恋愛は一種の脳の錯覚とも言われ、そのメカニズムは科学的にも証明されています。

一応、図書館に行ってきちんとした出典調べました。

身も蓋もない言い方だが、「恋に落ちる」というのは、脳内の報酬系にスイッチが入ることで、「この人しかいない」という気持ちが芽生え、一人の人に夢中になること。そうした、脳内の神経ネットワークが働く一連のプロセスなのだ。

報酬系とは、喉の渇きや空腹など、生物が生き延びるために必要な機能であり、この報酬系にとって極めて大事な働きをしているのが、快楽をもたらす神経伝達物質、ドーパミン(ホルモンの一種)だ。

つまり、ドーパミンは報酬系の燃料であり、恋の燃料なのだ。

ー 奧村康一らNHKスペシャル取材班(2009)『だから、男と女はすれ違う』より(一部略)

一応、図書館に行ってきちんとした出典調べました。

恋愛とは、単なる脳内のシナプスによる電気信号に過ぎないのかどうかということを調べにいったらしい。

時間が必要だ。

この映画の感想を言葉にするのには、時間が必要だ。

というわけで、公開から3年近くも経った今、ようやく考えがまとまっているのに気が付いたので、今日この記事を書いています。

↑「君の名は。」について3年間考え続ける。

 

ちんこというのも、言いにくそうにしている。しかし、言ってしまうのが彼女だ。そこは表現者としての気質が勝ってしまうのだろう。言わない女性は言わない。

 

別にちんこにそれほど関心があるわけでも、解き明かしたいとも思ってはいないが、ちんこを見ると止まってしまうことは確かである。真の女性性の女性は、ちんこの波動の影響を受けやすく、クレヨンしんちゃんのネネちゃんのように、しんのすけのちんこを指の隙間から眺めて、止まってしまう。

彼女たち自身もまた、潜在意識で何か大きなものが働いているのは自覚しているだろう。

もし枕元だったり、身近なところ、スマホのように、すぐ手に届く場所にちんこが置いてあったら、つい引っ張ったり伸ばしたり、宙にかざしてみたりするかもしれないが、別に特段、男のズボンを下げてまで調べ上げようとは思わない。ただ、ちんこの引力に引き寄せられそうになるだけである。

真の女性性の女性は、彼女らが描く少女漫画の主人公のようにドタバタしている。本当によく泣く。

自分の時間を生きていても泣いてしまうし、自分の時間を切り離されると、つらくて泣いてしまう。

そんなある日…

特別なことが起きました。

授業中、涙がこぼれて来たのです。

90分が早く終われと耐えている状況が、辛くてしょうがなかったのでしょう。

でもそれが泣くほど嫌なことだったとは、涙が出るその瞬間まで自分でも気が付きませんでした。

そしてふと思いました。

「こんなに嫌なのに、なんで私は今ここにいるのか」

と。

なんで私はここに座ってるの。

そう……

「そんなに授業が嫌なら、私は今すぐ立ち上がって、講義室を抜け出して、外に出ることもできるじゃないか。」

私は私を動かせる。

5秒先の自分が何をしているかさえ、自分で変えられる。

授業中もこんなことばかり考えている。

あーあ、私たちには見えていないものだらけで、棚に上げているものばかりでつらいつらいつらいつらい。なんか急にえーーーーーん(泣)って泣きたくなっちゃった。

平成最後というだけで泣く。

平成最後が愛おしいんじゃなくって、例えば私がおばあさんになったとき、なにか不思議な魔法にかけられて、平成のどの日でもいいから選び出されてその日に戻れたのなら、私はきっと泣いてしまう。

あ、お母さんがいる。

お父さんが目の前にいる!なんて若いんだ。

テレビのCM、懐かしすぎる!!!

今はもう絶対に会えないペットたちがいる。

みんなこうして一緒に同じ部屋にいる。

空気も音も、家具も街並みも、自分の身体も懐かしい。

もう2度と同じ状況になれない私たち。

みんな、紛れもなく生きていた・・・

いつか会えなくなるひとが目の前にいすぎて、「今」の温度や湿度が身体に密着しすぎていて、まとわりついて、離れていけばもう二度と戻れなくて、ひどすぎる。

生きているって残酷すぎて、冷たすぎて暖かすぎる、人生最後のこの瞬間。

平成が終わることには実はあまり意味がなくて、私たちこれからも、戻れない一瞬一瞬をずうっと生きていくんだ。

平成最後というだけで泣いてしまう。こんなに人間らしい涙があるだろうか?

土曜日といったらありきたりのよーな、中都市の住宅街の洗濯物がはためくような、気だるいようなこんな日が延々とくる気がするけど、2020年11月14日は地球上にもう二度と来ないと思うと鬱になる。時間というものが一回性ではなく、繰り返すものならいいのにな。

なんでこんなに優しいんだろう。

なのにどうしてちょっぴり悲しいんだろう。

悲しいと優しいは紙一重だ、きっと。

私はあと一か月ほどで26歳になりますが、25歳への未練は全くと言っていいほどありません。5より6の方が、語呂的にかわいいじゃん、とか思うほどです。

ええ私は若いですよ。ハタチの人から見ると分かんないんだけど、まあ一ヶ月後26歳になった私も「ええ私は若いですよ。」と堂々と言ってると思う。というのも、そもそも私は若さへの執着というのがあまりなくって、それはなぜかというと、若いということがそんなに素晴らしいと思っていないからです。

まぁ、こんなふうに逡巡しているらしい。

 

 

5 Fukiさんの女性の最高種である女性性と笑いとエンターテイメントの関係

 

女性性の最高種である女性は、笑いを追求してこなかったとしても、笑いというものがわかるものである。自身は発信できなくても、受信はできる。

とはいえ、男性性と女性性では多少の誤差は生まれる。

彼女が動画で語っていたが、サラリーマンの三人組が横断歩道の前で信号待ちしていて、彼らが同時にペットボトルを口につけて飲みだした、そのタイミングが三人とも一緒だったという話を高尚な笑いとして話していたが、それが男性性と女性性の笑いの違いである。

女性は確かにそういったネタで笑うことが多い。

一応、整理しておこう。

男性性の最高種である笑いは、

松本人志 寿司 コント

松本人志 コント 2

クロちゃんで笑ったら即引退

パシフィックヒム

板尾創路 ボケましょう

 

女性性の最高種であるエンターテイメントとは、

アドベンチャータイム

ジャルジャルコント「『定期的?』って言う奴と関西出身のツッコミ下手な奴」

となる。

小生もあのジャルジャルのコントを見た時、同じものを感じた。真の女性性の女性の最大沸点の笑いはあれだと思う。

アドベンチャータイムは見ていないのでわからないが、漫画だと、男性性の最高種の笑いはこれになる。

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