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頭が良いとは記憶力が良いということである

投稿日:2021-04-16 更新日:

「頭がいいとは記憶力が良いということである」という格言を度々聞くことがある。別々のところで別の偉人が言っているのを3回か4回くらい聞いたことがある。

昔はそんなわけがないと思っていたが、今はそうだと思うようになってきている。確かに人間の頭の良さというものは、記憶力のような気がするのである。

多くの人は、記憶力は単に物覚えが良いということに過ぎず、人間の頭の良さの本質とは違うと考えるかもしれないが、どうもそれだけの問題では無いようなのだ。

小生はこの記憶力というところに非常に関心を持っている。特に記事を書く上ではこの記憶力が良くなければ、何もできないんじゃないかと考えている。

認知症のように物忘れがあまりにもひどくなると、頭の良い悪いもない。非常に限られた世界の中でしか生きられなくなってしまう。

いつものごとく自慢話になってしまって恐縮なのだが、最近ある読者さんから、記憶力がすごいですねと褒められた。小生は言われるまで全く気付かなかった。しかし読み返してみると、確かに記憶力いいかもしれないなと思ったのである。

とある出会い系の就活生の女の子の記事について寄せられたコメントだったが、とにかくこの記事は小生の中でもとても思い出深い記事である。現在は非公開にしてあるが、これを書いている時はほとんど記憶を頼りに書いた。発想とかセンスとかそういうものを使って書いた覚えはほとんどない。42,000字の文章を5日くらいで書き終えたので、かなり速い部類だと思う。

これを何か見ながらだったり、調べたりしていたら、とてもこのペースでは書けない。速筆の人間は多くの場合、記憶から引きずり出して書いているのだと思われる。頭の中にはっきり記憶にあるものを書くと、とても素早く書けてしまう。何も考えずゼロ秒思考で書けてしまう。これだと全くストレスがない。だから久々に長文を書いたけど、ほとんど疲れることがなかった。

小生は週1回くらいのペースで友達と4時間ほど電話をするが、その4時間の内容をだいたい活字に起こすことができる。人が読んで読みやすいように体裁を整えたりするで、そのままというわけにはいかないが、まぁ大体は話したことをそのまま思い出して書いてるだけである。

これは正直簡単である。ただ思い出すだけで良いのだから。簡単そうに聞こえるだろうか?できる人は簡単にできると思う。だから別に自慢することではない。正直、これができないという人の気持ちがわからない。別に普段文章を書かない人でもできると思う。実際、自分の仕事とかの愚痴を人に話すときに、普段みんながよくやっていることだから、それと何も変わらないと思う。話すか書くかの違いなだけのような気がする。

絵をいちど見たら忘れられない人がいるように、小生もどうやら文章において、この方面の記憶が良いらしく、いちど話したことや人と会ったその日の出来事などは、かなり覚えている方である。その日から1週間や1ヵ月経とうが、大体覚えていて、後で書き起こすことができる。

これは小生にとって、努力したりがんばってやってることではなくて、ごく当たり前にできてしまうことなので、そんなに凄いことがどうなのかもよくわからない。だが今回、読者さんに驚かれたので、あーそうかもしれないな。もしかしたら記憶力が良いのかもしれんなぁと思った次第である。

こんなこといったらよっぽど学校の成績がいいだろうと思われるかもしれないが、そんなことはない。小生は60分という授業の間で、その間ずっと集中できた経験が一度もない。先生の話してる事がすぐにわからなくなってしまって、授業の話と自分がひとつになった経験が本当にほとんどない。

これが悔しくて、とにかく、今日こそは、今日こそは1時間ちゃんと授業を聞いてみせる! と思って本気で挑んだことがあったが、どうしてもこれができなかった。仕事なんかでもそうである。上司や先輩に教わったことがどうしても頭の中にインプットできなかった。しかし頭に自然に染み込む人は染み込むのである。この不思議さは一体何なんだろうとよく疑問に思ったものだ。

だから学校の定期テストの勉強をするときは、自分の部屋で教科書で勉強して、すべて独学で、何とか赤点を取らずに乗り越えた。

自分の体験を思い出してそれを活字に起こすことができるが、本で読んだ事は大体思い出せない。だからあまり本を読まないし、学校の勉強もあまり覚えられないのだと思う。要するに自分の体験を通したこと以外は何も思い出せないのだ。

何をするにおいても、記憶がすべてのデータベースになっている。

考えてみればわかるが、すでに自分の頭の中に全ての情報が揃っていたら、後はアウトプットするだけなのである。これほど楽で効率的な事はないだろう。←(じゃあさっさともっと速くアウトプットしてブログ更新しろっつう話だけどね笑)

宮崎駿はほとんど資料を使わないという。現場に取材を行くが、そこでカメラも取らずにじっとその景観を見つめているらしい。そして自分の中ではっきり落とし込んだという時が訪れるまではずっとそうしているらしい。そしてスタジオに戻ると、すべて見たものを思い出して描き出していくらしい。

鳥山明も手塚治虫もそうだった。日本でいちばん絵がうまいと言われている鳥山明は日本でいちばん資料が少ない漫画家として有名だし、手塚治虫の著書によると、手塚治虫は漫画家志望者はすべて頭の中から資料を引き出さなければならないと言っている。実際にその通りやってみせた以下のエピソードは有名である。

1980年の夏、アメリカ・サンディエゴで開催されるコミック・コンベンションに参加することになった同氏のスケジュールを聞き、当時の秋田書店担当である伊藤嘉彦氏は驚きを隠せません。帰国日が最終校了日(〆切)と重なっていたのです。「人物のペン入れをした原稿をアメリカから送る」と言い残し出国したものの、ネーム(構成の下書き)さえ受け取ることはできませんでした。そして〆切の2日前、手塚プロを訪れた伊藤氏はスタッフからまだ何も送られて来ていないと聞いて絶望します。インターネットはおろかファックスさえない時代、絵を送る手段などない…しかし手塚治虫は前代未聞の方法で原稿を仕上げるのですが、その手法は驚くべきものでした。まず国際電話でスタッフに方眼紙でコマ割りを指示し、何とか完成したコマだけの空欄原稿に、これまでの著作で描いた背景を指定、アシスタントが先行してペンを入れます。現地まで原稿を受け取りに行った他社の編集担当によると指示を出す際、手元に一切資料等はなかったそうです。どの作品の何ページ目の何コマ目と言うように、自身が書いた内容を全て暗記しており、さらに書棚の資料の収納場所まで指示していたというのです。そして帰国してすぐ近くのホテルで人物を書き加え、何とか〆切は守られました。同氏の様々な逸話の中でも特筆すべきエピソードと言えるでしょう。

出典https://cinemagene.com/post-9260/

モーツァルトが楽譜の書き過ぎで指が変形していたという逸話があるが、それもこれと同じだと思われる。楽譜を書き過ぎて指が変形するというのは、よっぽど迷いがなく頭にある音楽を正確に次から次へとずっと書き続けなければ起こらないことだ。実際に以下のことを言っている。そして着想があるとそれを忘れる事は絶対になかったとも言っている。

「――構想は、あたかも奔流の様に、実に鮮やかに心のなかに姿を現します。しかし、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とてもこれに一指も触れることは出来ません。…私は、ちょうど美しい一幅の絵あるいは麗しい人でも見る様に、心のうちで一目でそれを見渡します。…」(P16-17「モオツァルト」小林秀雄著・新潮文庫)

手塚治虫は漫画家志望の若者に対して、「映画を見なさい」とよく言っていた。実際にアシスタント達に映画代をあげていた。映画の中の記憶を頭の中に埋め込ませろということだろう。また学生には、アドバイスとして、学校に行く時、人々の顔や街の景色を一つ一つ記憶しながら歩き、いつでも記憶から呼び起こせるようにしておきなさいと言っている。

絵描きはなぜか映画好きが多い。絵の上手い友人は、映画で見たいろんな種類のキャラクターや世界観を、特に努力もしていないのに思い出して描けてしまう。プレスリーを描け、エイリアンを描けと言われたら、ほんとにすぐ描けてしまう。これは本当にうらやましいと思ったものだ。

記憶力といったって、別にそれは頭の良さということにはならないだろうと思うかもしれないけれど、素材ベースがなければ何もできないものであり、小生は昔漫画家を目指したことがあったけれど、原稿に向かって何一つ記憶から描けるものがないことがショックで、やめてしまった。

絵が上手い下手とかいうのは非常に曖昧な言い方で、小生は下手であるところは確かだけれど、それ以上に、記憶の中から何も引き出せないことがストレスでしょうがなかった。こうして今、何か文章らしきものを書けるのも、自分の記憶の扉を好きに開いてすぐに書けるから、ストレスがないからだと思われる。

漫画家を目指していた時は、何を描くにしても、いちいちネットで調べなければならず、それが本当にストレスで仕方なかった。

この話を友達にしたら、「すべての漫画家がそうだと思うよ。調べたものを描いていて、どんどん蓄積していくんだと思う」と言われた。

確かにそうかもしれないなと思って続けてみたが、一向に記憶に定着しなかった。というより、記憶の定着のさせ方というのがわからなかった。

一体記憶とは何なのか、どうやったら定着するのか、みんな、人は、どうやって記憶しているのか。どうやって記憶を起こしているか。

確かに小生は、記事を書くとき、自分でもよくわからない記憶力を頼りに書いている。

これはほとんど映像である。字を思い出しているわけではない。文章を書くといっても文章を思い出してるわけではなく、その時に体験した映像を思い出して、それを頼りにして書いている。

そういうと、映像を頼りにしているというのだったら、映像を起こせそうなものだと思うかもしれないが、どうしても映像を紙に起こせないのである。右脳でインプットして左脳でアウトプットするということか、よくわからないが、映像でなかなかアウトプットができない。

上の記憶力を褒められた記事も、映像を頼りに書いた。よくいわれる暗記法というのものも、映像で記憶しなければ覚えられるものではないというし、記憶力というのはつまり映像を覚えているということなのかもしれない。言葉を覚えている、会話を覚えているといっても、小生はその時の様子を全て映像で覚えている(といっても小生は彼女の顔がもうほとんど思い出せないが)。

人によって記憶力というものはそれぞれ発揮する分野が異なるだろう。絵の記憶が得意だったり、文章の記憶が得意だったり、先生の話をちゃんと覚えていられたり、運動なんかもそうだし、一度覚えた自転車の乗り方だったら忘れないというのもそうだし(自転車に乗ったりする記憶は、小脳による手続き記憶というもので、またちょっと違うかもしれないが)、人の顔や名前をずっと覚えている人、仕事の物覚えが良い人、一度作ったプラモデルの作り方を全部覚えている人、ゲームのどこに宝箱に何が入っていたかというのもそうかもしれない。小生はドラクエだったらどこのダンジョンに何の宝箱があるかとか大体わかっているが、そんな小生よりも、さらに宝箱のありかを知っている友人を知っている。

よって、何が言いたいかというと、その人の記憶力の偏りというものが、その人の得意なことや特性だと考えられるということである。特定のものに対しては異様に記憶力を発揮するという事。しかしこれは自分では当たり前だと思っているので、誰かに指摘されるまでまるで気づかないで過ごすことが多い。だから特定のものについての記憶力があるという事は、それに向いていると考えられる。まぁ何かの自己発見のきっかけになってくれたら幸いである。

しかし今日一日何を考えていたという事は、それだけはなかなか思い出せない(笑)

煩悩ほど無益なものはないということだね。

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