最後の電話
その後、2ヶ月くらい、彼女からまったく電話がこなくなった。
就活はどうなったのだろう? もうとっくに結果は出ているはずだ。落ちてしまったのか? しかしあれだけ受けておいて、ぜんぶ落ちたということはないだろう。それに、落ちたからといって、電話をしてこなくなるような子ではない。むしろ、そのことで電話をしてくるはずだ。
俺は気になっていたが、こちらからは電話をしなかった。
それは多分にプライドが関係していただろう。女の子の方から、それも11個も年下の、21歳の女の子の方からかけてくるのであれば、女学生が教授に質問に訪れるような、大正時代のいい師弟関係を思わせるような、そんな古き良き時代の名残を思わせるけれども、教授の方から何度も女学生に声をかけにいったら、ストーカー感が生まれてしまう。
一度、こちらから電話をかけたところで、ストーカーになるわけでもあるまいし。俺は何を気にしていたのだろう。かけてこないならかけてこないでも、俺は気にしない人間だよとでも言いたかったか。話の内容も、就活の相談という健全極まりないもので、女子校に赴任してきた新人男教師のもとに、女生徒がキャッキャとなついて、「しょうがないな」「やれやれ」とやっている構図を勝手に描いて気持ちよくなっていたか。そんなふうにかっこつけていたら、2ヶ月が過ぎてしまった。なんとも薄気味の悪い2ヶ月だった。
しかし、俺はとうとう我慢ができなくなって、LINEを送ってみた。
『元気してる?(^o^)』と送った。
『元気』
と、すぐに返ってきた。
『そっか、ならよかった』と俺は返した。
『ねえ、ちょっと話したいことがあるから電話してもいい?』と送られてきた。なんだ、早希ちゃんもやっぱり電話したかったんじゃん! と俺はすぐに嬉しくなった。
『じゃあ21時でいい?』
懐かしいやりとりだなと思った。21時。彼女のバイトが終わって家に着く時間だ。まだバイトを続けているらしい。
話したいことか、なんだろう? 話したいことがあったんだったら電話してくれればよかったのに。お互い、なんとなく間があいてしまって、再スタートを切るのに労力がいるようになってしまったか、その労力を相手に担わせたかったか。バルザックが、「恋愛はどちらかがズルをするゲームだ」と言っていたが。だけど、俺と早希ちゃんなら、すぐに元通りになるはず。電話をするって早希ちゃんが言ってくれたのは、早希ちゃんも同じ気持ちでいたからだろうと思った。
俺はこのとき実家に帰っていて、あてもなく、一階と二階を行き来していた。夕食を食べて、風呂に入ったあとでも、まだ19時。あと2時間が久遠のように感じられた。もう今から電話をかけてやろうかと思った。
(話したいことってなんだろう?)
(ちょっと話したいことって言ってたっけ)
(ちょっと?)
(ちょっとって)
相手の何気ないメッセージの仔細の部分まで考えて、2時間ずっとそのことを考えていた。
(しかし、妙だな……)
毎日、電話をしていた頃は、こんなに緊張をすることはなかったのに、今や、どうやって話していいか分からないほどになっている。早希ちゃんだぞ? あの、早希ちゃん相手に緊張している。2ヶ月、たった2ヶ月、話さなかっただけで、また振り出しに戻ってしまって、敬語でも飛び出しかねない状況だ。しかし、そうはいっても、俺たちは出会ってからまだ4ヶ月しか経っていないのだ。4ヶ月。桜木花道も4ヶ月で急速に成長してきたが、失われるのもまた早いと彩子さんに言われていた。人間関係は、性格や相性といったよりも、時間がいちばん左右するものだと思った。
21時ピッタリになると、それから10秒くらい経って、スマホの音が鳴った。

「久しぶり」
と早希ちゃんは言った。
「久しぶり」
と俺も言った。
「結果はどうだった?」
「とりあえず受かったよ」
「本命のところ?」
「個人情報だから」
「……」
なんだ? 言いたがらないらしい。
「そっか。車通勤すんの?」
「それも個人情報だから」
「車はなるべくやめたほうがいいね。やっぱり自転車通勤がいちばんだよ。クロスバイクの有用さは知っておいたほうがいいよ」
「うん」
「自分がやりたいと思える企業に就職することはできた?」
「個人情報だから」
個人情報、個人情報うるせーな。 マイナちゃんかよ。二ヶ月話していないあいだにマイナちゃんになっちまったのか? 官公庁なだけに。

「……」
久しぶりの会話はここで終了してしまった。早希ちゃんはいつものように会話をつなげてくれなかった。
「もう就活も終わったんだったら、あとは遊ぶだけじゃん。まだバイトやってんの?」
「うん」
バイトのことは答えてくれるらしい。
「どうせ、これからずーっと長いこと働くことになるんだからさ、バイトなんかやめてひたすら遊べばいいのに」
「就職するまでは働くってバイト先に言ってあるし、そんなにすぐに代わりも見つからないし、高校時代から5年勤めてきたところだし」
「そっか」
「……」
早希ちゃんはまた黙ってしまった。俺ももう質問が思いつかなかった。初めて会ったときの、街をガイドしてくれたときの彼女が恋しくなった。ガイドさーん! 道がわかりませーん! 案内してくださーい!(\>\_\<)
「元気ないね」
「元気だよ」
「あ、好きな人とはどうなったの?」
「うん、あのね、LINEくれてありがとう。わたしもあなたに言いたいことがあったから、LINEしてきてくれてよかった」
「言いたいこと? なに?」
「わたしあなたのブログ読んだの」
背中が一瞬で冷たくなった。
「マジか、よくわかったね」
「だってあなた何でも話すんだもん」
「そうだね」
「あなたがふだん話していることをネットに検索かけたらすぐに出てきたよ」
「そっか」
「うん」
俺は彼女の態度の理由がわかった。たぶん、あの記事を読んだんだろうと思った。
早希ちゃんには、ブログの存在は知らせていなかった。俺はブロガーとして、いろいろな記事を書いていることは彼女に話していた。偉そうになんでもペラペラ話し、それなりに収入が入っているとか、まあまあ人気だとか、今日は読者に○○を褒められたとか、嘘や誇張を交えてあることないこと話していた。彼女は記事を読みたいと言ったが、俺はかたくなに断っていた。
彼女にブログの存在を知られるのは嫌だった。ブログにはほとんど女の悪口しか書かれていない、出会い系で90人と出会って20人とやったとか、女の心理とはこうだとか、女はいつもこんなことを考えて、こうすれば落ちるとか、恋愛脳もいいところで、いい年して、一生懸命に愛や恋について考察している姿を早希ちゃんに見られるのは嫌だった。
人生に行き詰まっていたり、あまりにも仕事ができなさすぎて、どこにいっても使い物にならず、普通の社会人生活が送れていないこと。そんな、正直に自分の不安を取り上げて書いている記事を読まれるがいちばん嫌だったかもしれない。そうでなくとも、俺はいつもからりとした態度で彼女に接していたから。
月に十数万の売り上げをたたき出しているとかうそぶいていて、本当は1円も収入が入っていないこと。入っていないどころか、あまりにも内容が下品ということで広告審査に落ち続けていること。そのためYouTubeの方で収益を上げようと試みてはいるものの、ダラダラして更新をサボっていること。このように、自分の決めたことを守り通せず、ダラダラしている32歳の姿を見られることが、何よりも恥ずかしかった。
ならば、落ち込むのは俺のはずなのに、なぜ彼女の方が落ち込んでいるのか?
彼女のエントリーシートの文章をネットに公開して、それを記事にしたからである。
たしか、『最近の就活生のエントリーシートの文章がひどい』というタイトルだったと思う。彼女のエントリーシートについては、先に話した通りであるが。俺は、彼女の文章をそのままブログ記事に載せ、彼女の文章が変わっていく過程、変わっていくけど何も変わっていかない過程を面白おかしく書いた。彼女の文章の一つひとつに、いやいやこれはこうだろ。これはああ書けよ、とツッコミを交えながら。
なぜそんなことをしたかというと、ちょうど書けそうな素材が目の前に転がっていたからである。べつに大して書きたいとも思っていなかった。むしろ書きたくなかった。めんどくさいとすら思っていた。ただ、何も考えずに書き始めることができたからである。理由は本当にそれだけである。
『書きたいものがない作家は人の悪口を書くようになる』と、どこかの作家が言っていたような気がするが、それがそのまま俺にあてはまった。
もし単純に、あることをそのまま書いたのであれば、ここまで彼女を傷つけることはなかったかもしれないが、俺はないことまで書いた。記事を面白くするためである。企業名だったり、プライベート的な部分は伏せたけれども、彼女が書いた文章を捏造したり、彼女の至らない部分をわざと誇張して書いた。
記事の締めくくりには、
「はぁー。一日中、エントリーシートの添削に付き合わされましたー。毎日ですよ。毎日、こんな文章が送られてくるんですよ(笑) おかげでハースストーンのランクが下がる一方です(笑) 何回言っても直んねーし、エントリーシートよりも問診票を書いて、左脳を小さくして右脳を大きくしてもらう手術を受けた方がいいですな。でも何書いてあるかわかんないから、お医者さんに伝わんないか(笑) 気のせいか、この子の文章を読んでいると、左の金玉が大きくなってくる……! ど、どんどん、どんどん、大きくなってくる……! ま、前が見えない! う、うわぁぁぁぁぁーーーーーッ!!
と書いた。
これには、とうぜん、12個も年下の国立大学のお嬢様とやりとりしてるんだぜ? という自慢も含まれていた。というよりそれしかなかった。
「あのね、まず最初にあなたに言っておきたいことがあるの。本当にあなたには感謝してます。何度も電話かけたのに、そのたびにいつも優しくしてくれて、何でも相談に乗ってくれて、本当にありがとうございました。そしてあなたの時間を奪ってしまって本当にすいませんでした。いくら就活で困っていたとはいえ、あなたにもやりたいことがあったのに、嫌がってるあなたの気持ちも考えずに、無理強いをしてしまって、本当にすいませんでした」
冷たい声だった。今まで聞いたことのない声だった。そして早口だった。
「わたしもこれは自分でやらなければならないことだったし、見ず知らずのあなたに頼んだり、無償でお願いすることではなかった、ましてやアプリで出会った人に頼むようなことではなかった、本当にごめんなさい、あなたの方では、陰で馬鹿にして楽しんでもらえたみたいで、少しはお役に立てたみたいですが、でもネットのことだから何があるかわからないし、あの記事消してもらってもいいですか? 内定先に漏れる可能性だってあるし、わたしも裁判とかそういうやりとりをしたくないので」
早希ちゃんの口から、裁判という言葉が出てくるとは思わなかった。
「恩を返せなくてごめんなさい。消してくれればそれでいいですから。本当に、相談にのってもらってありがとうございました。そして、本当にごめんなさい。これだけはちゃんと伝えたかったから、伝えられてよかった。ここまではあなたにちゃんと言わなければならなかったこと。でも、これから言うのは、ただのわたしの感情です。あなたがブログで好きに書いたように、わたしも言いたいこと言わせてもらっていいですよね? あのさぁ、あなたもひどくないかなぁ? 自分のやっていることをさぁ、振り返ってみて、自分でおかしいと思わないかなぁ? なんであんなこと書けるのかなぁ? あれはひどくないかなぁ? わたしあなたにあそこまで書かれるほどのことしたかなぁ!?」
どんどん怒気が強まっていった。俺は返事もできなくなっていた。
「やっていいこととやっちゃいけないこともわかんないかなぁ? ああいうことを書いてさぁ! 書かれた人がどれだけ傷つくとかそんなこともわかんないのかなぁ!? もう30になってさぁ、仲良くしてた女の子に書くことなのかなぁ!?」
脳がグラグラ揺れた。「ごめん」と言いたかったけど、それも言えなかった。俺はあまりにも固くなってしまって、まず、何も言えない自分をどうにかしたかった。
「許せない」
と彼女は言った。
「悪いよね」
「悪いよ!」
「その、やっぱり記事を書くと、悪口を書いてしまうというか、炎上を狙っているわけじゃないんだけどね。過激に書いてしまうところがあって。事実をそのまま書いても、ただの日記になっちゃってつまんないというか。だから本当は思っているわけじゃなかったんだけど、つい書いちゃったというか」
「思ってもないこと書けるかなぁ!?」
「……」
12個も年下の女の子に凄まれて、怯えた。
「なんか、外見の悪口も書いてなかった?」
「外見の悪口?」
俺の記憶では、エントリーシートの悪口しか書いてないと思ったが。そういえば、貧乳だとか、化粧がへたくそで歯が真っ赤で血を吐いているように見えたとか、徹夜でエントリーシートを書きすぎて骸骨になってしまっているとか、エントリーシートを書きすぎて血を吐いているとか、いろいろ書いた気がする。
「まぁべつに外見のことはいいんだけど、その通りだし」
「いや、本当はかわいいと思ってるっていうか」
「……」
そういうのはいらないというふうに、早希ちゃんは俺の言葉を黙殺した。
「ひどいよ」
と言って、早希ちゃんは泣いてしまった。
「ひどい」
泣き声はどんどん大きくなっていった。声が高いから、泣き声も高かった。
泣かせる理由が、あまりにもくだらなすぎる。仲良くしていた女の子のエントリーシートをブログに載せて泣かせてしまったって、あまりにもくだらなすぎる。これが32歳のやることか? 仲の良い女の子にやることか? 泣かれなきゃわかんないのか? 俺は仕事を辞めていったい何をしているんだ? こんなことをするために、仕事を辞めて実家から飛び出してきて、このクソみたいな六畳一間で文章を書いているのか?
「ひどいね」
「ひどいよ……!」
彼女はグスグスと、声にならない声で泣いていた。何を言ってもこの涙の前にかき消されそうだった。ずっと終わることのないように泣いていた。永遠に泣き止まないんじゃないかと思った。
彼女は、これまで生きてきて、こんなひどいことをする人間に出会ったことはなかっただろうし、これからも出会うことはないように思われた。
やっぱり、近づいちゃいけなかったんだなと思った。畑が違う。俺は悪いことばかりしてきた。万引きもして、道路にタバコをポイ捨てして、小さい頃、いちばん仲良かった友達がいつも胸に抱えていた聖剣伝説2のガイドブックをドブ川に投げ捨てて、いつも、いつも、こうやって人を泣かせている。だけど、どうして彼女は泣いているんだろう? 何が悲しくて泣いているんだろう? 俺に裏切られたこと? エントリーシートをネットに載せられたこと? 本当のところでは、何が悲しくて泣いているのかよくわからない気がした。自分でもよく分かってないんじゃないか。泣くしかないから泣いているんじゃないか。早希ちゃんが泣いているんじゃなくて、涙の方が泣いているのだ。
今も、泣きながらも、こうして電話をしてくれているということは、どこかで俺を善人だと思っているから? 俺は善人なのか、悪人なのか、自分でもそれがわからなかった。早希ちゃんが答えを出してくれる気がした。
「ほんとにつらかったんだよ」早希ちゃんは泣きながら言った。「ほんとに、あれから大変で、いちばん大変な時期に、何度もあなたに相談したかったのに、一人でがんばるしかなかった」
「うん」
「でもぜったいに見返してやるんだって。ぜったいに一人で乗り越えてやるんだって、本当にがんばった。だから、あなたには感謝してるところもあるの。それがなかったら乗り越えられなかったかもしれなかったから」
「うん」
俺がいなければ乗り越えられない就活か。そんな就活があってたまるかと思ったが。
俺は彼女の嗚咽を聞きながらも、これはどっちの涙なんだろうと考えていた。『記事で悪く書かれたこと』か、それとも『俺との関係がなくなったこと』か。
俺は、今、彼女に会いたいと思っていた、彼女の泣き顔を見たいと思っていた。
「にゃー」
と猫の鳴き声も聞こえてきた。
「猫が心配してるね」
「あなたのYouTube動画、この子も一緒に見てたよ」
「笑ってた?」
「ううん」
「俺はさぁ、男と女のあいだに友情があるか、わからないけど、あったっていいと思う。男同士の友情をそのまま当てはめることはできないかもしれないけど、あくまで、男と女のエチケットやマナーは免れないかもしれないけど、あったっていいと思う。たまにこうして電話で話すような関係は、あっていいと思う。それは、すごくいいことだと思う」
自分で言ってて、マナー守れてねーじゃねーかと思ったが。
「俺は、俺と早希ちゃんがお互いに結婚したあともさ、この関係が続けられたらいいなぁなんて思ってたの。本当にね。大げさだけどね。まぁ俺は結婚できるかわからないけど、ただ、この日常の中で、岩に染み入る蝉の声じゃないけど、早希ちゃんの、その、黄色い、高い声がさ、胸に染み入ってくるのは、いつも心が洗われる気がして。早希ちゃんの声が耳に入ってくるのは、すごくいいと思ってた」
俺は続けた。
「俺はね、たぶん結婚とかはないだろうけど、早希ちゃんが結婚するまでは、いや、結婚した後もさ、電話できたらいいなって思ってた」
「大丈夫。あなたは優しいから」
優しい? 俺が?
「本当は、もっとちゃんと書きたかったんだよ。本当のことを。もともと俺はへそ曲がりなところがあるしね、つい、照れ隠しで軽口書いてしまったというか、いつも、本当のことを書きたいと思ってたんだけど」
「わたしもね、本当に悪いなって思ったの。あなただってあなたのやることがあるのに、いつも遅くまで電話しちゃって。ほんとに迷惑だったなって、本当によくなかったなって思ってるの。私もちゃんと謝ろうって思ってたの、その、迷惑だったら言ってほしかったなって。でも言えないよなぁとも思って」
「いや、もしめんどくさかったら、めんどくさいって言うよ。記事じゃ、めんどくさいって書いたけど。めんどくさくなかった。いつも、楽しかった。楽しいことを楽しいっていうのは勇気がいるから。勇気がなかった。それだけ、本当にごめん」
「うん。もしめんどくさいって思ってるんだったら、言ってほしかった。無理して付き合ってくれてたのかなと思ったら、ほんとに申し訳なく思えてきちゃって」
「真面目だね」
「真面目だよ!」
彼女はここにきてまた大きな声を出した。また怒らせてしまった。
無脊髄動物のように、考えもなしに話すからこういうことになる。
自分のことを真面目だと怒れるだけの真面目さは確かに彼女にはあった。真面目な人間ほどいつも傷ついてるような気がする。彼女は傷ついて泣いている姿がよく似合っていた。
「しかし、よくブログにたどりついたもんだね」
「あなた何でも話すから。あなたが電話で話したことを検索かけたらすぐに見つかったよ」
「そうなんだ」
「ほら交代浴のやつ」
「ああ、あれかぁ」
『交代浴はいいよ。むかし、仕事で、患者さんの骨折の治療がなかなか捗らなくて、ふつうは2週間もすれば良くなっていくんだけど、ぜんぜん治っていかなかったから、交代浴っていう物理療法を試しにやってみたんだよ。すると、それだけですごい良くなった! スポーツジムの風呂に行ってもさ、サウナと水風呂を交互に行き来すると、肌がめちゃくちゃ綺麗になる! ふだん使われない皮膚刺激が活性されるんだろうね。全身をラップで包んだり、全身をタール剤でまんべんなく塗りたくると、一分ももたずに人間は死んでしまうといわれるように、やっぱり皮膚ってバカにならないね。スポーツジムに行ったらかならず交代浴やってるけど、ぜんぜん違う、肌がめちゃくちゃ綺麗になるよ』
こんなふうにペラペラ話していた。早希ちゃんもとくにこの話には食いついていた。女はやはり肌がきれいになるという話には目がないらしい。
「わたしも電話しようと思ってたけど、怖くて。ひどく言われたらどうしようと思って」
「ひどくって、俺に?」
「うん」
「言うわけないじゃん」
「でも書いたじゃん」
「まあ」
「記事だったらともかく、直接言われたら、たぶん耐えられないと思ったから」
直接悪く言う人間とまで思われてしまっていたのか。直接悪く言う人間ってなんだ? なんだそいつは? なんでそんなことをするんだ?
「でも、LINEくれてありがとう。このまま何も言わずに別れちゃうのは嫌だったから」
「俺も、それはずっと思ってて。このまま、こうして別れちゃうのは嫌だなって。なんて言ったらいいか……。ただ……、ただ……? ただ……」
「でも、これが最後ってわけじゃないから」
早希ちゃんは最後じゃないと言ってくれた。そのことがおかしくなりそうなくらい嬉しかった。
「会いたいとは思わないけど」
と早希ちゃんは言った。
「そっか」と言って俺は笑った。
「会いたい?」と彼女は聞いてきた。
「どうだろうね」と俺は答えた。
早希ちゃんが会いたいとは思わないと言うから、俺もこんなような軽口を叩いてしまった。
これが、男同士の友情と男女の友情の違いである。男同士でこんなことをやっていたら、友達でもなんでもなく、ただのゲイである。
「ごめんね」
「うん」
俺はやっとごめんと言うことができた。
※

「ねー、さいきんさぁ、『累─かさね─』って映画見たんだけど、ほんとにすごい面白かった! あなたもああいうの書けばいいのに」
「書くわけないじゃん」
「見たことあるの?」
「ないよ」
「せっかく文章うまいんだからさぁ」
「文章うまいって、何か記事読んだの?」
「わたしも読者だから」
「21歳の女の子が読みにくるようなところじゃないよ」
「あの小川っていうのは何?」
「さあ」
「ねぇ、今回のさぁ、このこと、小説にできそうだね」
「このことって、このこと? こんなの……、バカが大学生の女の子のエントリーシートを勝手にネットに晒して、泣かせただけの話じゃねーか」
「素敵な話になりそう」
「そもそもジャンルがなんだよ」
やはり女というものは、変な男の変なブログに、自分のエントリーシートを晒されたという気持ち悪いできごとさえ美しい物語にしてしまう。『累─かさね─』のようにかさねられてしまう。
「まったく、変な関係だね」
と俺は言った。
「変?」
「こんな、30代の、よくわからない、何をしているかもわからない、こんなよくわからない男と、国立大学生の女の子が電話するなんて」
「ちょっと物知りなお兄さん」
と早希ちゃんは言った。
「回避型」の終局

このあと俺は、彼女をボロクソに書いた記事を読み返そうとした。だが、どうしても読むことができなかった。
自分が書いたものだ。だいたい何が書いてあるかは想像はつく。が、読もうにも、読みはじめようとするそのそばから、その場から離れたくなってしまい、まったく読むということができなかった。
実家の階段を行き来しては、2階の母の部屋に入ったり、仏間の押し入れの戸を開けてみたり、廊下で寝ている猫をいじったり、ベランダに出ては外の空気を吸ったり、近所を散歩したり、海辺を歩いたり、さまざまに心の転換を試みたが、どうしても読むことができなかった。
早く読んで安心したかった。そんなにひどいことを書いたわけではないと安心したかった。だが、たぶん、読んでも安心できないだろうことはわかっていたのだと思う。
安心? 何が安心だ。あれだけ泣かせておいて、安心も何もあったもんじゃない。仮に俺が安心できたところで、彼女が泣いた事実は変わりない。
自分の書いたものがどうにも読めなくなったことは、後にも先にもこのときだけである。けっきょく読みはじめるのに3日かかった。一度だけサッと読んで、跡形もなく完全に消去した。
それから俺は、彼女に読まれたら困るなぁという記事を、自分が早希ちゃんになったつもりになって次々と読んでいった。一種のマゾヒズムか。早希ちゃんになりきって読んでいくと、そのとき想起される様々な感情が新鮮で、なるべくその誤差をなくしたいと思い、つまり、早希ちゃんが一次的に感じるであろういちばん新鮮なものを自分に再現させたいと思い、それは非常に精神の器用さと集中力を要する遊びだったが、なんとか俺は敢行した。敢行したが、とくに持ち帰ったものはなかった。
そうやって読んでいくと、どの記事も新鮮に思えた。あー、これも読まれたのか、あー、これも読まれたか、と、乾いた笑いしか生まれなかった。
彼女はあれもこれも読んだ。読んだ上で、「これが最後じゃないから」と言ってくれた。そう思うと嬉しくなったが。むしろ、ここからが本当の始まりかなとも思えた。もし、ここから関係を築けていけたら、そんな女性はきっと貴重だ。「これが最後じゃない」と言ってくれた彼女の言葉は、あのとき電話で感じた体温は、信じていいあたたかさだった気がする。
しかし、俺はそれからというもの、電話をしなかった。
もう一度、電話をしようと思っていた。すぐにでも電話をしようと思っていた。約束もした。また電話しようって。
すぐに話そうと思っていた。だが、俺は、ただ、電話をしなかった。ただ、しなかった。
あんなことがあったあとで電話をしなかったらどうなることが予想されるか? 彼女は悪態をついた方の俺こそ真実の姿だと思うかもしれない。
なんでもいい。何を話したっていい。ただコールボタンを押せばいい。べつにふつうに近況だったり、また家電の話をすればいい。就活は、もう終わったから、その話はできないけど。『累─かさね─』でもいい、なんだっていい、電話をかけさえすれば、またおそろしい勢いで二人話し始めるだろう。かけさえすればいい、この場合、ただ電話をかけることだけが重要だ。
彼女の方から電話がないのはなぜだろう? 数日、数週間、数ヶ月……、電話がないままどんどん時間が経っていった。彼女の方からも電話はなかった。そりゃあ、早希ちゃんの方から電話はないか? あんなこと、されたんだもんな。彼女の方からかけたら、それはただの聖母で、甘やかしで、ただ俺をこれ以上ダメにするだけだ。たとえ話したいと思っていても、彼女の方からはかけられない性質のものだったか。いくら、「恋愛はどちらかがズルをするゲームだ」といっても。
どうして、食指が動かないのだろう? 心の食指が、いざ、早希ちゃんと電話したいと思っているはずなのに、どうにもこうにも形として、外に現れる行為として結実できない。スマホを取って、LINE画面を開いて、アイコンをタップして、コールボタンを押すということができない。この、考えていることよりも、行動していることの方が真実だとするならば、何か、外部の、不断の矯正力のようなものが働いているのだろうか? それも強制的に。だとしたら、俺と早希ちゃんのあいだで、もう今世においてやるべきすべてのことを終え、もう縁も切れたということだろうか?
「会いたいとは思わない」って言ってたしな。会いたくないのか、早希ちゃんは。それなら、じゃあいいよ、と言ってしまいそうになる。俺だって、会いたいかどうかはわからない。が、気になっている。
俺だって、こうして電話したいと思っているけど、しなくてもいられているってことは、それほど電話したいと思っていないってことなのかな? 忘れている時間は忘れているもんだ。早希ちゃんのことを考えていないときは早希ちゃんのことを考えていない。そういうものか。それでいいか。
※
それから、半年が経った。
ある、なんでもない日に、まるで落雷に撃たれたかのように、胸がキューっとしてきて、どうしようもなくいてもいられなくなってきて、プールの高跳び台のジャンプのように、俺は早希ちゃんのスマホ画面の中に飛び込みたくなっていた。
ベランダでタバコを吸っていたり、本を読むでもない、考え事をするでもない、ただ行動という行動の間に、どうしようもない気持ち悪さに襲われた。
どうしてこんなに気持ち悪いんだ? 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、この気持ち悪さは、何だ? たぶん、俺がやることをやっていないからか? ちゃんと、もし、自分がやることをやって、ちゃんと、早希ちゃんに電話をかけて、やることをやっていれば、とにかくこの苦しさからは抜け出せる気がする。この気持ち悪さは、罰だ。天からのメッセージのような気がしてならない。ちゃんと、今、この場において、やることはやれと、亮一、やれ! と、そう言っている気がする。大切な人なんだろう? 話したい人なんだろう? それをやって早希ちゃんに嫌われたのであれば、少なくとも、この鬱蒼した気持ちからはおさらばできるはずだ。俺は。ただ、早希ちゃんと話すことがかなわなくっても、ただ、この苦しみから抜け出せればいい。
いや、でも、もう新しい環境になって、新しい仲間がいて、同じ夢を志す同志たちと卓を並べ論じ合い、その中には素敵な異性がいるかもしれない。お役所仕事の新品のスーツ姿の、いっしょに新卒として入った、早希ちゃんとお似合いの。その男と、毎日、相談しながら仕事する日々を送っているかもしれない。早希ちゃんは、そういう男が好きそうだからなぁ。そんな中、こんなドクダミみたいな汚れた男のかすれ声が早希ちゃんの耳に入ってもなあ。とりわけ、大学時代は仲間グループから疎遠となり、一人孤独に過ごしていたかもしれないけど、今はもう俺を必要としないかもしれない。就活だって終わってるし。今は、新しい環境で和気あいあいと、楽しい素敵な仲間に囲まれてやっているのかもしれない。不思議と、早希ちゃんのような女性は、社会登壇さえすれば、そういう運命にある女性のように思うのだ。それは、向こうから電話をかけてこないのが、いい証拠じゃないか?

そんなふうに考えていたら、2年が経ってしまった。
ある日、異様に英気がみなぎった日があり、俺は早希ちゃんにLINEを送った。
『元気してる?(^_^)』
2日たっても3日たっても、既読にならなかった。
2ヶ月たっても3ヶ月たっても、既読にならなかった。
ブロックされているのかわからない。ブロックされた相手にLINEを送ったことがないからわからなかった。
俺は、いつでも、こちらから連絡さえすれば、彼女が応えてくれる気でいた。だから、送ってしまえばどうにかなると思っていた。そんな傲慢な気持ちが、宛先不明の住所から、自分のもとへ返されてきたようだった。
早希ちゃんのLINEのアイコンは、2年前のままだった。ホーム画面も2年前のままだった。彼女がプロフィール画面を更新したことは見たことはないし、女の子にしてはそういうところは無頓着ぽかったけれども。さすがに2年間も同じホーム画面ということはないか。これはブロックじゃなくて、使われてないアカウントか。いや、LINEにアカウントを使い捨てる概念なんてあったか? Googleアカウントじゃあるまいし。じゃあ、やっぱりブロックか。なんでブロックしたんだ? 俺がタラタラしていたから?
(電話の方は繋がるかもしれない)
久しぶりに心の底からドキドキした。
俺は早希ちゃんのLINEの電話アイコンをじっと眺めていた。
これを押せば、繋がるかもしれない。
俺は確かに押した。確かに押したのだが、通常のLINE電話をかけるときの、あのLINE特有の電話をかけたときの音と少し違っていた気がする。一応電話をかけることはできたが。どうも、あの、ふだん、誰かにLINE通話をかけるときの、あのLINE特有の音と少し違うような、いつもトークボタンを押して、相手が出るまでの、あの音と違かったような気がするのだ。ブロックされていたらそうなるのか? わからない。もし、こちらが電話をかけて、足跡が残るのならば、早希ちゃんが折り返してくるのを期待したが、反応はなかった。
そこで俺の挑戦は終わった。
なにがグイグイ系だ。本当はグイグイ系じゃないんだよ、早希ちゃん。これはブログの読者の人に教えてもらったけど、こういうのを「回避型」っていうらしいよ。
さらに、それから一年ほど経った頃、もう一度、俺は、LINEを送ってみたらどうなるのかと思って、送ってみた。
が、やはり既読にならなかった。以前ならなかったものが今どうしてなるというのか。電話アイコンを押したって、ダメだよな、どうせ、と思って、使われていないアカウントだし、と思って消した。今はもう影も形もない。
「ドン引き」
「寝ろ」
「大丈夫、あなたは優しいから」
「ちょっと物知りなお兄さん」
たまに、夜になると、彼女と電話したくなる。
これが彼女の話していた小説かどうかはわからないが、書いてみた。『累─かさね─』とはぜんぜん違う物語になってしまったが、書くだけ書いた。やっぱり書かれるのは嫌だったかね。ごめんね。ちゃんとすぐに消すから。