理学療法の専門学生時代、なんとなく挨拶をしないでいたら、どんどん周りに嫌われていった。仲良くなった生徒ができても挨拶をしないでいたら関係は白紙に戻され、また始めから関係を構築しなければならなかった。
挨拶をしない覚悟を決めていたわけではない。相手が嫌いだからというわけでもなく、ただなんとなくしなかった。
人間というのは面白いもので、どれほど仲が良くても挨拶をしないだけでどんどん関係は悪くなっていくが、何も話さないでいても挨拶だけしておけばどんどん仲が良くなっていく。
医療系の専門学校ということもあり、小生以外のすべての生徒はちゃんと挨拶をしていた。
小生は、挨拶されたら返すけど自分からはしなかった。途中から挨拶するように変身するにはとても大きなエネルギーが必要とされた。今まで挨拶をしなかったのに急にどうしたと思われるのが嫌だった。
互いが挨拶をせずに通り過ぎたらイーブンなはずなのに、ぜんぶ小生が悪いとされた。
そんなこともあってか、入学してから始めの1年半は凄まじく浮いていた。天井に頭がぶつかりそうなほど浮いていた。
※
理学療法の学校は、実習で全国の病院を転々とまわることになる。
実習帰りの電車の中、クラスの女の子と会った。19歳の現役生の子だった。そのとき小生は25歳だった。
彼女は小生を見かけると、会釈した。学校では一度も話したことはなかった。話したことがないどころか、挨拶すら交わしたことがなかった。
「しまるこさんはどこの病院行ったんですか?」
「えーと、御殿場のね、雪ばっかり降ってる病院に行かされた」
「なんですかそれ」
と彼女は笑った。
「実習はどうですか?」
「雪降っててね、そのままの靴でリハビリ室入っちゃって、床を雪だらけにしちゃってね。そしたら患者さん転ばせちゃった」
「え!? 本当ですか!?」
「うん、何度も何度も謝って、やっと実習させてもらえるようになったんだけど、その後またしでかしちゃって、担当した患者さんの名前が、『田中小夜子』っていう名前だったんだけど、まちがえて『佐代子』って書いちゃったのね。で、『佐代子』をボールペンの二重線で消して、その上に『小夜子』って書いたら、また帰れっていわれた」
「……」
彼女はドン引きしていた。やっぱり挨拶しない人はダメな人なんだなと思っているようだった。
「今日も課題いっぱい出されて、寝れないですよ」
「へぇー」
「しまるこさんは課題ないんですか?」
「どうだったかな」
「どうだったかなって、忘れたらまた怒られちゃいますよ」
理学療法の実習で出される課題の多くは、動作分析である。
例えば、やれ右足を振り回しているように歩いているのはどんな原因が考えられるかというと、MMT(徒手筋力テスト)では右の股関節伸展筋群や中殿筋の筋力が2だからどうのこうのとか、ROM(関節可動域テスト)によると、膝の屈曲角度が145°だとか、どれどれの筋肉や関節の動きが十分でないから、この体位時にこういった動揺がみられるとか、そういったことをスティックピクチャーといって、棒人間の絵を描きながら考察を垂れなければならないのだが、小生はいつも「がんばって考えたけどわからなかった」の一点張りで通した。
2、3行だけ書いて、徹夜で頭を振り絞って書いたけど、馬鹿だからわからなかった、すいません……という体で、残念そうな顔をしてノートを見せると、それでなんとかしてもらえることが多かった。「こういう風に考えたらいいんだよ」とバイザーに指導されても、次の日、「やっぱりがんばって考えたけどわかりませんでした」といって、ノートを提出していた。
「実習ってすごく緊張しませんか?」
「そうだね」
「見学中にずっと立ちっぱなしだと足痛くなりませんか?」
「そうだね」
「お昼はどこで食べてるんですか?」
「どこだったかな」
この会話何の意味があるんだろう。本当にその話したいと思ってる? とお互いが感じながらも、それに流されずにいられないのが人間である。
こういうとき、若い子は必死に会話の間を埋めようと話そうとする。当然、これまで話したこともない年上の男相手だと、さらに拍車がかかるのは無理もない。小生も油断するとそういう話し方になってしまう。
しかし、これをやってしまったら負けだと思っている。こういうときは小生は必ず無言に徹する。この人無言とか気にしない人なんだと思わせたら勝ちである。小生はぼんやりと電車の走る窓の景色を呆然と眺めたまま何も話さなくなってしまった。
すると、女の子はどうしていいかわからなくなってしまったようだった。実習帰りで疲れているにも関わらず、いつも挨拶しない変な男に出くわしてしまって、会った以上は仕方ないから話してやってるのに、急に無言になって窓の外を眺められてしまった。
社交辞令を済ませているうちに別れがやってくるだろうという彼女の計画はもろもろ崩れ去ってしまったのである。
同じ場所で同じ時間を共有しているのに、黙りこくってしまう人間がたまにいる。19歳の彼女でも、こういった人間を見たことはあるらしかった。
フロイトの元へ、はるばる遠くから哲学上の談義を交わすために友人が訪れたが、フロイトは急にだんまりを決めて話さなくなってしまい、その場にいたフロイトの奥さんが客人の相手をするしかなかったという。
フロイトはすべてに気づいていた。気づいていた上で無言を通した。神に誓ってもいいが、会話中に無言になってぼんやりする人間は、ぜんいん気づいた上でやっている。
だから奥さんが代わりを務めなくてもなんとかなった。代わりを務めるからダメになる。小生も、小生が無言でいる間に、いつも誰かが代わりに話してしまうから、真の交際になる機会がやってこないことはよくある。
精神の重さを感じ、精神が沈んでいって、いちばん深いところに沈殿した場所で話さなければならない。自分も他人も、本当はそれを求めているのだ。しかし不勉強のため、ほとんどの人間ができないでいる。常に精神の最奥を住処にしたフロイトは、だから沈黙したのだ。なにか話せなければと慌てていると、その動揺がそのまま相手に伝わってしまう。フロイトはそれを取り除こうしたのだろう。それは決して自分の都合のためではない。友人に対する最大の愛なのである。
若い女の子はみんなピョンピョン跳ねたように話す。ボールの重さを感じながら投げるのと感じないで投げるのでは、まったくスピードが変わってくるように、すぐに掴んですぐに投げるから、遠くに飛ばないし、怪我をする。
小生は確かにこのとき重みを感じとれた。彼女の中にも重さを感じとれた。
彼女は今まで見たこともない大人を見るような目で、熱っぽい視線を小生に送った。ふだん同級生との間で子鳥のさえずりのようにピーチクパーチク話す自分でなく、こうして無言という形で語り合えることに感動しているようだった。
彼女はいま、部屋で一人でいるときのように誰かといられることに心地良さを覚えているようだった。彼女も自分の言葉で話したかった。無言という形で。初めて会話する人間とそれができることに驚いているようだった。
大人がすぐにセックスする理由もここからきている。話したくないからだ。めんどくさい社交辞令や交際の義務をショートカットして、裸で抱き合い、ピロートークだけをしていたいのだ。そのためにはセックスしてしまうのがいちばん手っ取り早いのである。
我々は、実習のこと、学校のこと、挨拶しないこと、恋人はいるか、学校に入る前は何をしていたのか。話すことはいくらでもあった。我々の前には明かされていないことばかりで、いや、明かされていないことしかなかったが、ずっと沈黙した。
我々は、黙ったまま静かに電車に揺られ、窓の外の景色を眺めたり、思いついたことがあれば、ポツポツと適度に会話を切り出した。長年付き添った夫婦のように。
「じゅんなちゃん、うちくる?」
「え? 行きたいです!」
小生はふざけていってみたのだが、予想外の返答に驚いてしまった。
「行きたいです!」といったときの彼女の顔は、19歳らしい若さと好奇心に満ちて、頬が赤らめていた。色気と精神の光芒が一体となった、いちばんいい表情だった。
安らかな心地のいい空気を出しておいて、そこに安住するのかと思ったら、今度は家に来いという。これぐらい引っ掻き回したいものである。まぁ、引っ掻き回したくていったわけではない。単純に素直に出た言葉だ。
今度一緒に遊ぼうでは弱い。こういうとき、『今度』はダメだ。
と思っていたら、じゅんなちゃんに、「今度じゃダメですか?」といわれた。
まぁ、女は脇毛の処理とかあるし、パンツも実習用に動きやすいやつを履いているだろう。実習にエッチなパンツを履いていくわけにはいかない。疲れで股間に活性酸素も溜まっているだろうし、何より明日も実習だ。
※
翌日、学校にいくと、すれ違うすべての学生がニヤニヤしながら小生を見てくるようになった。みんな、挨拶をしてくるようになった。
その顔を見てすぐにわかった。じゅんなは小生から無言の境地を何も学んでいなかったことがわかった。
ギャップというやつか。挨拶すらしない奴が家に誘うとは思わなかったから、みんなギャップに興味を示したのだろう。
一瞬困惑したが、義務だと思って小生は挨拶してくるすべての女子生徒に「〇〇ちゃん、これから遊びにいこう」と声をかけてやった。ニヤニヤして小生を見てくるので、「今から授業サボって遊びにいこう」といってやると、「いまからですか?」と、またニヤニヤして笑った。
それから小生の人気はどんどん上がっていき、それまでモテていた男たちを追い抜いてしまった。しかし、じゅんなちゃんとは、それから2、3回話した程度で、ニヤニヤしながら挨拶する程度の関係に終わった。