やれ善だの愛だの神だのいったところで、その一点に執着していると、心がのびのびと働かなくなってしまう。心は何も思わず、何も考えないときに、もっとも最適な活動がされるから、その心的機構を十分に働かせることが大事である。
仏教だろうがヨガだろうが武道だろうが、調べていると、やはりここに行き着くらしい。
木が全身全霊で木であるように、石が全身全霊で石であるように、木は石にならないし、石は木にもならない。赤ちゃんも赤ちゃんでいる。
しかし、木や石にも心がある。我々と違って雑念妄念がないから、その心を最大限に活用し、全存在を機能させることができている。
もちろん物事にはすべて中心があり、人間の中心とは、へその下、肉体の重心があるところであり、多くの先達は、そこに気を沈め、そこの集中して物事には当たれば、何事もうまくいくと説いている。
人身の正しい姿勢を得るための工夫は、まづ第一に、下体に一身の元気を充たしめることでなくてはならぬ。下体に一身の元気を充たしめるとは、腰に力を漲らせることである。腰に力を漲らせるとは、腹筋を緊張せしめることである。ところで、腹筋を緊張せしめれば、その緊張の中核として、臍下に不動の集約点が内観される。その集約点が古来言ふところの気海丹田である。一切の局部の力を抜き全身の力を挙げて丹田に集中せしめる、いはゆる錬丹の法は、古来わが国における武道、芸道、坐道その他において修せられ來った。 (『身體論』佐藤通次著、白水社)
臍下三寸を丹田といふ。腎間の動気ここにあり。難経に、臍下腎間の動気は、人の生命也。十二経の根本なりといへり。これ人身の命根のある所なり。養気の術、つねに腰を正しく据え、真気を丹田におさめ集め、呼吸をしづめてあらくせず、事にあたっては、胸中より微気をしばしば口に吐き出して、胸中に気をあつめずして、丹田に気をあつむべし。如レ此すれば、気のぼらず、胸さはがずして、身に力あり。貴人に対して物いふにも、大事の変にのぞみ、いそがはしき時も、如レ此すべし。もし止む事を得ずして、人と是非を論ずとも、怒気にやぶられず、浮気ならずして、あやまりなし。或は芸術をつとめ、武人の鎗太刀つかひ、敵と戦ふにも、皆此法を主とすべし。これ事をつとめ気を養ふに益ある術なり。およそ技術を行ふ者、特に武人は、此の法を知らずんばあるべからず。 (『養生訓』貝原益軒著)
肥田先生の中心力練磨もそうだし、白隠禅師もこれを強く勧めている。沢庵も強く勧めており、修行の段階で避けて通れないものだといっている。
この中心点は、まさしく自分本体の中心であり、自分そのものであるが、沢庵は、『最上は放心とす』といっている。自分にすら執着してはならないという。自分を手放し、心を手放し、自分を知った上で自分を捨て去ることが、自分を活用させる最上の方法だといっている。
練丹も中心力練磨も、目的ではなく手段なのだろう。結局どこに向かえばいいか、どうすればいいか、目的地はどこなのか、というと、心の働きを最大限に使うことである。心を最大限に使うには、心を捨てなければいけない。
肥田先生も「神がいるかどうかを確かめなければなりません」といって、30の頃にはすべての社会生活を断ち切って、伊豆の山奥に遁世されたが、数十年の修行の結果、「自分が空になったときに神が宿る」という結論に達した。
何事も、どんな些細なことも、よく習い覚えて、そしてそれをすべて忘れてしまって、勝手に行動に現れるときがいちばんうまくいく。自転車なんかもそうだ。医学用語でいえば、小脳の手続き記憶というやつだ。中村天風も、小脳の働きに何でも任せてしまいなさいと言っている。
日常の、世間のことや、物事の善し悪しをならい覚えて、それを綺麗すっかり忘れてしまう。いかに忘れるか、いかに考えないか、思わないか、ここが問題になってくるわけだが、これは誰もが聞いたこともあり、誰もが一度は試して見ようと思ったことがあるだろうが、二日も続かなかっただろう。
この前実家に帰って猫にいじわるしたら、「フー!」といって思いっきり引っ掻られたけど、数分後に近くに寄ったら、何事もなかった顔でにゃあと鳴いていた。そしてウトウト眠りはじめた。本当に綺麗すっかり忘れていた。
この境地については、霊的指南本、武術の秘伝書、不動智神妙録やら五輪書やら猫の妙術やらギーターやら数多のスピリチュアル本のどこにでも述べられているが、ただ無心であれと説くだけで、無心のなり方については具体的に説明されていない。
考えないようにするためには考えないようにしようとするその思いも捨て去らなければならないと柳生宗矩は語っており、しかし一方では「楔を抜くためにそこに楔を打つしかない」と、何かが心に思い浮かんだら、心の力を活用させて心の異物を取り除きなさいともいっている。
「空」は、誰でも体験していることだろう。普段の日常生活の至るところで空になることはあると思える。千手観音のように、千の手を自在に扱うように自在に心を働かせているわけではないから、空の境地とはいえないだろうが。
過去問をやらずにひたすら勉強したって効果薄弱のように、やはり最終的な答えは知っておいた方がいい。
一切は空。ラマナマハルシは、心の中に雑念が現れたら、部屋の掃除をするようにひとつひとつ片付けなさいといっている。心の中に浮かぶものはすべて異物だから燃やし尽くしなさいといっている。
雑念妄念は、水面に揺れる波に過ぎず、波が収まったときにはっきりと真実の姿を表すように、表面が揺れさえしなければ、正しい形がはっきり表れる。すべての人間に仏性があることは確かだ。
人間の心の奥底には、もっとも合理的でもっとも善なるものが眠っている。これは自分が思ったり考えたりするよりも確かに素早く適切な行動を取ってくれるものであり、この心を活用させるか、そうではないか、二つに一つのように思われる。
やはり精神には2種類ある。外側と内側。揺れるものと揺れないもの。この内側の揺れないものにすべてを任せなければならない。肥田先生が、「自分が空になったときに神が現れる」といったのも、こういうことだろう。
この、一切揺れない明澄な心だけを持ってすべての行動にあたる。何も思わない、何も考えない、何も執着しない、しかし、このように考えていることも執着を意味する。
平らな鏡のように見える池も、その水面をよく観察すると、大小様々な波が、絶えるえることなく立っているものだ。我々の心もそのように、喜びや憂い、その他諸々の感情の働きによって、刹那を安定することがない。それが人間の、ある意味では健康的な日常というものではないか。だが、そのような心の深いそこには、もう一つの心がある。寂然として動かない心がある。表面の心がいかに波立っていても、その波紋は静かに安んじているその心には、届くことがないのである。柳生宗矩
肥田先生は正しい姿勢をとれば、すぐさま大脳の機能が停止して、即悟入するといっている。大脳の機能を停止させて、脊髄反射的に、パッと白紙にできるという。
ただ浮かんだものを観察し続けるという人もいれば、高速で何度も頭をリフレッシュして白紙にし続けるという人もいる。運動時にこの機能が使われていることがたまに感じ取れる。僧より武芸者の方が悟りが早いといわれるのもこの所以らしい。
リセットボタンを押すように、パッと消し続けることはできなくもない気がするけど、ずっとそのまま消し続けるということはできない。どうしてもまた変なものが浮かんでくるので、またパッと消すしかない。日常で、今できる修行といったらこんなことしかない。だが、これをやり続けてきたおかけで、昔の自分よりずっと透徹な精神を持つことはできた。
高校時代、友達と一緒に自転車で帰っているとき、「これ、なんだろう、これ、この感じ、言葉ではうまくいえないけど、この感じ、ある奴とない奴いるじゃん? 勉強も運動も俺らよりできる奴いるけど、これがあるってすごいことじゃない? これがあるって俺ら得してるよな」と友達がいっていた。
その友達は現在は157cm70kg、肉を食べ過ぎて肛門を壊し、何度も痔の手術ばかりしている。週末になるとコロナ禍の東京に行って、カバンに仕込んだ小型カメラで女性のスカートの中を盗撮し、24時間ずっとマッチングアプリのメッセージを送っている。
しかし才覚というものは恐ろしく、このような欲望漬けで身も心も壊しておきながら、彼の中に、多くの人よりも多分に「空」を見ることができる。彼もまた小生の中に「空」を見い出す。彼は小生と数年ぶりに会うと、ずっと小生のことを見つめている。自分の空と、小生の空の差分を静かに計算している。
彼と久しぶりに会って目が合わさると、互いの中に揺れないものを感じる。そういうとき彼はニヤッと笑う。水面の下の奥にある部分で通じあって共鳴してしまっていることが、お互いにわかりすぎるほどわかってしまう。互いの中に自分を発見する。これが恋というものかもしれない。いくら出会い系をやっても彼女ができないのもこういうことかもしれない。彼女の中に自分を発見できず、彼女の方でも小生の中に自分を発見できない。ひとたび互いの中に自分を見出してしまったら、付き合うしかなくなるだろう。
しかし彼は甘い。怠りに怠り続け、流されに流され続けてしまった。目指すべきものの差だろう。一切の空。空の境地を目指す心がけがないから流されてしまう。流されている自覚があるまま。
自分の持っている物を全て使い果たして死んでいきたいものである。そのためにはやはり修行は欠かせない。
消して、消して、さらに消し続けなければ奥地にはたどり着けない。ラマナマハルシはいった。心を破壊せよ。