人格においても癖はあってはならない

スポーツをやっていると自分の動きに癖があるのがわかる。

 

テニスの壁打ちをよくやるが、変に手に力が入っていたり、ラケットの軌道がおかしかったり、完全に脱力してもダメだし、どこかを固定しないとダメだし、ただのまっすぐの王道の軌道だけを捉えることが難しい。


いや言うほど難しくないのに知らない。どこかギクシャクするようなとこが固い部分とかおかしな部分がある。そういう部分を取り除いていくと純粋な真実な動きだけが残る。


努力するということは本物の動きだけを目指すということだ。これはスポーツだけに限った話ではない。話すことも文章を書くことも、絵も音楽も、仕事も、地球上のあらゆる出来事において癖というものがあってはならない。


その人の個性とか長所が花を開いて初めて意味があると思うかもしれないが、それを悪とみなして、人格すらも飛び出した部分を引っ込めて、隠れた部分を引っ張り出して、偏りを修正させたい。

 

結局物事においては、ただ純粋な科学的な法則があるだけである。


昆虫を見ても動物を見てもまっすぐにその王道を貫いて生きている。木は全身で精一杯

木として生きている。


人間だけがどうしても癖というのを取り除けない。


俺はテニスをやったりボクシングをやったり野球をやったりランニングをしたり、スポーツを通じて癖を取り除くということに心を砕いている。


ただ走るにしても、体幹を押し出して、その推進力に手足がついてくるといったように、動物の動きを参考にしたり、自分の身体に聴いたりして、ノイズが完全になくなるまでそれを続ける。


身体のノイズが鳴り止んで、ピタって、何もない、立ち止まっているような、ただの一つの点になれたとき、自由というか、深奥のようなものを感じる。


今こうやって文章を書いていても、どうやったら自分の癖がなくなるのか考える。

深夜行なっているバットのスイングのように、無駄なく流麗な線を描くように、話すことも文章を書くことも繋げたいものだ。


1日を過ごすには癖は付いて回る。どうでもいいことをずっともやもや考えてしまう。

 

あれだけキリストや仏陀が、そういう思考や雑念に振り回されるのはよくないと教え広めたのに、どうしてもモヤモヤと流された1日を送ってしまう。

このモヤモヤに流されてしまうのも、癖だと思う。人間だけがこんなくだらない1日を送る。


ただ純粋に物事に徹するということができなくて余計な事をうだうだ考えてしまう。


癖のない一日といえば、そう言われてみると難しいけど、余計なことをできるだけ考えず。

ただ自分が決めた習慣を守るということだろう。


動物や昆虫も木も植物も本当に規則正しい生活をしている。


いつも決まった時間に決まったことをしている。

 

この癖というものについて、今はスポーツという部分単位でしか捉えられていないけど、1日という単位でなくしてみたいもんだ。