こんな世の中だからこそ、懺悔が必要ではないだろうか

カラマーゾフの兄弟を久し振りに読み返していたら、やはり宗教色が強いなぁと思った。一巻を読み終えたばかりの感想だと、教会と国家の関係と、懺悔について思うところがあった。


ドストエフスキーの思想には、教会は国家より上に位置して、政治を携わるのがいいというものがある。教会の宗教的、聖人的、慈愛の心をもって政治を操作するということだ。たぶん。

国家は数字や機械的に運営していくので、そこに人間の心が薄れていくことを危惧したのではないかと思う。

教会がトップに立っていけば、自然とその精神が国全体に伊吹き、懺悔、祈り、愛といったものから行動が出発することになる。


俺もどちらかといえば、愛とか祈りとか、そういう精神がまずあって、そこから国の政策が後でついてくるような世界の方がいいなと思う。子供の頃はそんなのは恥ずかしいとか、愛とかそういう言葉をみるだけで唾を吐きかけたくなったが、30も過ぎてくると、愛について一生懸命考えたくなってくる。


長老みたいな偉い人がいて、毎晩その人に懺悔する生活はどうだろうか、面倒くさいだろうか。本の中でもそんなシーンがあったのだが、結局はふぬけた人間はまじめに懺悔することなく、俺がお前に対して腹が立って怒ったことにするから、それに話合わせてと、作り話しの懺悔をしてしまう人が溢れてしまっているというところがあった。


今の時代に懺悔を用意しても同じことになってしまうが、じゃあ無意味だとするとそうでもないかと思う。


たった一人、成熟した長老みたいな偉い人がいて、教会にいって懺悔する。自分の1日の振り返り、反省、後悔、心のゴミをすべて掃除する。これでもかと思いっきり誰かに話を聞いてもらうということ。なかなか親友や家族にも話せないことはあるし、忙して聞いてももらえないこともあるだろう。そして1日を振り返って反省することもない人もいるかもしれない。誰かに話すことは重要だと思うし、それ以上に全てにわたって精通した偉い人に話を聞いてもらうことが重要だと思う。誰でもいいわけではない。そして、その長老みたいな偉い人の空気、聖人のもつ雰囲気やオーラにちょくちょく当たることが重要だ。


今の時代は若者は大人をバカにしてるし、老人なんてガラクタだと思っている。自分の魂をぶつけられる存在ではないと思っている。まぁ、確かに、懺悔に値するおじいちゃんおばあちゃんなんて俺も会ったことがない。尊敬できない老人ばっかなのは同意する。


だから架空の話になってしまうが、漫画に出てくるようなすごいおじいちゃんがいて、そういう人が何人も地域にいて、教会みたいなところで座っていて、俺たちは懺悔しにいく。今日会ったこと、悪いことをしてしまったこと、悪いことを思ってしまったこと、それらをすべて告白していく。そして目の前の聖人の空気に当てられて、雰囲気をともにして、同じ空間をゆっくり味わうということ。こんなことを繰り返していたら立派な人間になれそうだと思いませんか?


懺悔はなぜ存在していたのかと考えると上記のような理由だと思う。


今みたいにネットの馬鹿みたいにうごめきあって、カスとカスがまざりあってたくさんゴミをまきちらしている時代にこそ、こんな懺悔のような習慣が必要だと思う。


一番問題なのが、そんなすごいおじいちゃんがどこにもいないという点なのだが。

俺がじじいになったら引き受けてもいいと思っている。